「八つ(原題:Eight)」を観る

 2016年に発表されたピーター・ブラックバーン監督のオーストラリア映画。amazon primeでたまたま見つけ、強迫性障害を取り扱っているということでウォッチリストに入れておいた。
 撮影は80分ノーカットで行われている。プロットとしては、女性が朝起きて、家を出る、ただそれだけ。他のワンカット映画では、ワンカットの中にも様々な展開が用意されているが、この映画ではただ一人の女性が起きてから朝支度をするだけで映画が終わる。映画の中に姿が現れる登場人物としてはたったの二人、姿が現れない人物をいれても5人。場所も自宅だけ。回想などの内面での時間移動も表現されていない。初めてセリフが話されるのも映画の中盤に差し掛かったところ。
 物語を構成する要素、情報は非常に少ない。しかし、その情報の少なさが、逆説的にその女性の苦痛、悲惨さを物語ることになる。
 この家に住む女性、サラは「強迫性障害」を患っている。家を出るときに鍵を閉め忘れていないか、火を止め忘れていないかという不安がいつしか強迫観念として体に残り、いつまでも払しょくすることができず、同じ行動を何度も何度も繰り返してしまう。(日本文学にも、特定の儀式を行わないと家に入ることができない、という強迫観念がある青年を描いた、小川洋子『貴婦人Aの蘇生』がある。あの青年も非常に悲痛な人生を送っていた)
 サラの行動はさらに特殊で、同じ行為を8回繰り返さないと次の行動に移ることができない。朝起きるために鳴らしている目覚ましは、スイッチを8回押して切る。スリッパを履くときは、片方のスリッパの周りを4か所つま先でつついてからじゃないと履けない。左右で8回つつくことになる。手を洗うのも、ソープをつけて、水に流す行為を8回繰り返す。シャワーを浴びて体を洗うのも各箇所8回こすらないと次の箇所を洗えない。その行為を繰り返しすぎたせいで、彼女の皮膚は赤くただれたようになっている。ベッドメイクも、少しでもごみがついていると新しいシーツに取り換えて、最初からやり直しになる。これらの行為を経ながら、着替え、服薬、食事とタスクを一つ一つこなしていく。
 私たち観客は、その症状と闘うサラのたった1日を観ているに過ぎない。氷山の一角という言葉もあるが、この映画が始まる前には、数百日に及ぶサラの戦いがある。サラの苦痛はスクリーンの外にいる私たちにもひしひしと伝わってくるが、その苦痛をサラはこの前にも数百日にも及んで経験しているのだ。その映画が始まる前の苦しさを観客に想起させるほどの凄みがこの映画にはある。
 そして、映画はサラが家を出て、その先にいる(おそらく)彼女の主治医である精神科医と握手をして、また家に戻る場面で終わる。もちろん、ここでサラの症状が完治するはずはない。この先にも苦痛に満ちた治療が長きにわたって行われるはずだ。つまり、この映画は観客にとってみればただ80分の仮想体験に過ぎないが、当のサラにとっては数年にわたる治療生活のほんの1日に過ぎない。その途方もなく長い苦痛を、この映画は秘めている。
 サラには夫と小学生の子どもがおり、時折家に飾られている家族の写真がフレームインする。物語の中に姿は現さないものの、母親に会えずさびしい思いを募らせた娘がサラに会いに来て、扉の前でサラに声をかけるものの、サラは自分の醜態を娘に見せることを拒み、扉を開けることができない。そして、直後に夫との会話が挿入されるのだが、夫からはサラの病状に対して理解が得られていないことがわかる。それぞれの家族との物理的・心理的隔絶も、「家族が姿を現さないこと」で逆説的に明瞭になる。
 まさにカニッツァの三角形のように、核心を描かないことで、逆に核心を浮かび上がらせようとする。壁に貼られた無数の付箋のメッセージをさりげなく観客に提示するカメラワークや、情報を提示する順番などを利用しながら、「描かないことで描く」という仕組みを巧みに利用したのがこの「八つ」という映画だ。

 フィクション論的な話をすれば「物語における『はじまり』と『終わり』とは何か」ということを考えさせられる。たとえば、ある人物が生まれたところから小説が始まり、その人物が死んだところで小説が終わったとしても、その他の登場人物の人生はその世界では続いていく。このサラの治療生活と同じだ。
 童謡「やぎさんゆうびん」では相手に手紙の内容を尋ねる手紙を交換し続けるというディスコミュニケーションが描かれているが、最初に黒やぎさんが受け取った手紙には何が書いてあったのか、という疑問が浮かぶ。そして、最初の手紙にも「さっきの手紙のご用事なあに」と書かれていたのではないか、という仮説が立てられる。つまり、歌が始まる前からもこのディスコミュニケーションは続いていて、歌が終わっても未来永劫続いていくのではないか。そうであるならば、いったいこの文通の「はじまり」はいったいどこにあるのか。そして、「おわり」はどこにあるのかという宇宙の起源、宇宙の消滅にも似た疑問にもたどり着く。
 「八つ」という映画の「はじまり」と「おわり」はサラの闘病生活の「はじまり」と「おわり」とは一致しない。他のフィクションもそうなのだろうか。
 映画が終わっても、サラの治療が続けられていくのなら、歌が終わってもヤギたちの虚無に向かう手紙の交換は行われ続けるのか。はたまた、私が死んでも、この世界は継続されていくのか。小説の中の世界と、外の世界のはじまりとおわりはどういう関係なのか。宇宙が「はじまる」まえの「世界(?)」はあったのか。この「世界」のはじまりとはなんなのか。単なるフィクションの話ではなく、人生や、世界の起源にもつながる疑問だと勝手に思っている。

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