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【三国志】劉禅の暗君ムーブは仕方なかった?

三国時代、蜀では孔明とその後継者の死後、
劉禅が大赦を連発したり宦官を重用した。

劉禅の暗君ぶりを示すエピソードとされている。

だが、単なる暗君エピソードというより、そうせざるを得なかったのでは? という話を書きます。

■劉禅の無能ムーブの要因は?
結論から言うと
そうしないと皇帝の権威と権力が維持出来なくなった事が要因ではないだろか?

(派手に反乱するような骨のある豪族は劉焉〜諸葛亮がだいぶ始末したので、国が割れる事は無かったが。)

それまでは孔明系統の一強で、彼らは劉禅を立てる事で双方にメリットがあった。

が、それが複数派閥に分かれてしまうと、
皇帝はそれらを仲裁しなければならない。

どちらかに肩入れ出来ないので、皇帝の権威と権力を劉禅が自前で維持しないといけない。

豪族や民間を統制する力は無いけど
求心力は高めないといけないので恩赦をする。

頼れる後ろ盾が居ないので皇帝の
代弁者たる宦官を重用する。

劉禅の暗君としての振る舞いには、
こうした当時の蜀漢政権の事情があったのではないだろうか。

趙雲さん、ベビー劉禅を頑張って守ったのに…

■皇帝劉禅の憂鬱
漢の復活を掲げて建国された蜀だが、
実態は益州一州に過ぎず、
孔明が度々遠征しても、ついに中原に討って出ることは出来なかった。

劉禅にすれば「この王朝、どうせ魏も滅ぼせないし維持する意味あるんか?」と思ってもおかしくはない…

逆に孔明死後も、姜維が北伐に熱心なのは、彼は蜀と接する土地からの亡命軍人なので、やらないと政権内でプレゼンスを維持できないからだ。

なので、姜維が一生懸命戦ってても、劉禅は彼を放ったらかして降伏してしまう。

劉備の跡継ぎの劉禅、無能か有能かの議論があるけれど、有能・無能どちらとも言えない、良くも悪くも周りに染まりやすい普通のオジサンだったのかもしれません。

(旧日本軍が爆撃しまくっても落とせなかった益州を落とされたと考えるとなんだかなー、とも思いますが。)