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私ではない〈わたし〉のための現代短歌(または川柳)

今回は、短歌入門・川柳入門と題された2冊の本を読んで、創作について感じたことを書きます。

まずはこちら、我妻俊樹・平岡直子「起きられない朝のための短歌入門」(書肆侃侃房)

入門といいつつ、まったくの初心者向けというより、既に短歌の実作をある程度経験し、その先のステップを模索している人向けといった趣です。
わたし自身も短歌を詠みはじめて5年ていど、歌会に参加したり、連作の作り方に悩んだり、ちょうど刺さる内容でした。
眠れない夜ならぬ起きられない朝のような対話を通して、お互いの、そして読み手の短歌観を深掘りしていきます。

おもしろいのは、短歌界でよく言われる〈人生派〉と〈言葉派〉、そして作中主体をめぐる考察です。

短歌・和歌はもともと手紙のやり取りに使われていた歴史があるため、何も断りがなければ短歌の中での行動や思考は〈私=作者〉のことであると捉えられる伝統があります。
ただし、現代短歌においては必ずしも私が作者の実体験ではない場合や、あるいはそもそも〈私〉がいない、抽象的な言葉の面白さを優先するという作風も生まれてきました。
後者のような「言葉だけでできている」短歌が〈言葉派〉、それに対して自身の人生経験を具体的に表現するのが〈人生派〉と言ったりします。
けれど平岡さんは本書で、人生派は〈人生-人生派〉〈人生-言葉派〉に分かれるのではという説を提唱し、〈人生-言葉派〉は抽象的な言葉、いわゆるフィクションによって間接的に人生を表現していると言います。

わたし自身、短歌に魅力を感じるポイントとして、仕事や家庭といった日常生活ではまず使わない言葉、フィクションによって立ち現れる非日常の抒情が大きい。
それでも、そんな短歌を詠んでいるのは日常の〈私〉ではない〈わたし〉であることには変わりません。

その考えをさらに深めてくれたのが、暮田真名「宇宙人のためのせんりゅう入門」(左右社)

短歌は五七五七七の上の句・下の句からなりますが、川柳は五七五の17音を基調とします。といいつつ、下の句にあたる「七七」という定型もあることは本書で初めて知りました。
わたしは短歌から入ったので、より短い川柳や俳句の定型に漠然とした難しさを感じていたのですが、暮田さんの句集「ふりょの星」を読んで衝撃を受けました。

良い寿司は関節がよく曲がるんだ
いけにえにフリルがあって恥ずかしい

暮田真名「ふりょの星」(左右社)

意味がわからない。

いや、日本語として成立してはいるのだけれど、日常生活ではまず見られない組み合わせの言葉たち。

〈私〉は置き去りにされた、いわば〈言葉派〉の極北のような句ばかりです。

こうした「現代川柳」とは何か、何のために存在するのかを、ある日拾った宇宙人と一緒に考えるのが「宇宙人のためのせんりゅう入門」です。
(やっぱり意味がわからない…いい意味で)

個人的な川柳への苦手意識は、五七五の定型というより、〈普通〉で、まっとうな社会の中に生きる作者が想像できるパブリックイメージとしての川柳だったのかもしれません。
そんないわゆる〈人生派〉川柳だけではない〈言葉派〉川柳には、UFOと同じく未知の可能性があります。

暮田さん自身、短歌や俳句でなく川柳を書きはじめた動機が、普段の自分=〈本名としてのわたし〉が思ってもいないことを書けるから、だったそうです。

それでも、あるとき、自分の作品で自分の心が動く体験をしたことがあると、本書で明かされます。
それはきっと、ものを書いたり、つくる経験をした方なら共感できる経験でしょう。

わたしも、あまり表立って言うのは憚られますが、自分の短歌や、自分の文章を読み返して、救われた気分になることがあります。

私ではない〈わたし〉が短歌や川柳を、ことばをつむぐ理由は、きっとそこにある。

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