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自分で稼いだ金でもないのに@母 #はたらくってなんだろう

「自分で稼いだ金でもないのに」

街で募金活動をしている方々を見かけると、いつもこの言葉がよぎる。母から発せられた言葉だ。

母のことは大好きだ。いつも家に対して忠実だった。私の前では常に完璧な母であり妻であった。お弁当はいつも彩り豊かで、友達に羨ましがられた。何でもできた。人生のお手本の様な人。器用で賢く忙しい時間の隙間で趣味である書道も精力的に取り組んでいた。何より愛情いっぱいに育ててくれた。それは家から離れた今も変わりない。

でもその時だけは、ちょっと違う人の様に見えた。

高校生の時、親からもらったお金を握りしめて。
塾の前の軽食や、放課後の遊び、CANMAKEなんかのやっっすい化粧品を買ってみたりした。その時お釣りでいくらかの小銭が戻ってくる。その1円2円をレジ横の募金箱に入れていた。そのお金がどう使われるかなんて、考えてはなかったけれど。微力ながら誰かの役に立てばという思いと、募金をする事はいい事だ、と盲目に信じていた。

何ヶ月か続けて、ある時母に言ってみた。私最近募金しとるんよ、と。

その時に返ってきた言葉が、それだ。私はショックだった。だって募金はいい事でしょう、褒められると思ったのに!いい事したねじゃなくて、そんな風に言うの!
冷静になり、考えた。確かに…私のお金じゃない。両親が頑張って働いて得たお金、私の為にとってくれていたお金、紛れもない事実。それから募金するのは辞めた。

大学生になり、アルバイトを始めた。一人暮らしだった事もあり、やりくりは自分でやった。この時もまだ親の支援を受けていたのだけれど、お金って働いても全然貯まらないなと実感した。

社会人になり、ほぼ自立した生活するようになった。ほぼ、というのはたまに母が送ってくれる贈り物があったから。健康を気遣い、家で採れたお野菜や、漏れないように厳重に封されたお惣菜を贈ってくれた。有り難い。遠く離れた今では、家の味を忘れそうになる。それを引き戻してくれる贈り物だ。

母はマメな人だ。広告で特売日を確認し、クーポンやポイントカードを駆使して1円2円を捻出していた。田舎で、娯楽などない世界で母は母なりに自分らしさを保っていた。たかが1円、されど1円。弛まぬマメさによって創造された、貴重な1円だ。私の為に使ってくれた。私が私の為以外に使ったら、それは母に対して失礼だ。

だから、社会人なってなお、誰が為に募金する事に引け目を感じていた。あの時の言葉、「自分で稼いだ金じゃないのに」は心に染み付いて離れなかったから。私は自立していた。だからお金をどう使おうが自由だ。けれど、どうしても母に後ろめたい気がして募金できなかった。あなたの100円で救われる命がある、そう言って募金を募っている方を横目に、いつも足早に通り過ぎていった。

日本では時々天災が起きる。見ていられないほど悲惨で、現地の方を思うと胸が痛む。昨年は私の故郷も大雨で家を失った方々がいた。インフラが全く機能していなかった。物資もボランティアも足りてなかった。それでも、あの言葉に縛られてどうしても動けなかった。

そんな私が、クラウドファンディングというものを知った。興味本位で、やってみようかな、と思った。流行ってるから、経験値として。それだけ。
支援する対象がはっきりと見え、返礼品を貰える事でいい事をした、という認定証をもらえる様な気がして、これまでの気後れをあまり感じないで済んだ。「志」を共にする、とでも言うのだろうか。実際どう使われるか明細が見えない街中の募金よりも意義深い気がした。

ただ何を支援するのか、それに迷った。誰も彼も支援を必要としている。特に地元民が助けを求めている時、支援したいと思いながら、沢山のヘルプにどういう基準で選択すれば良いのか、決めかねていた。

そんな時、たまたまYou Tubeで紗栄子さんの動画を見た。別にファンでもなかったのだけれど、お勧めに出てきたから何となく。質問コーナーで、今の幸せ度みたいなのを答えていた。彼女は即答で120%と答えていた。その回答に射抜かれた。この人に賭けてみたい、そう思った。芸能人として、余裕のある姿を表現しただけかも知れない。分からない。けれど、クラウドファンディングと私が急に結びついた気がした。

紗栄子さんはいま、現役を引退した馬達が暮らす牧場を経営していた。資金が底を尽き、畳む事しかできない牧場買い取り、立て直しを図っていた。

私は動物が好きだ。私は紗栄子さんの故郷である宮崎にも縁があり、都井岬の美しい馬達にまた会いたいと願っていた。青い海と緑の草原と茶色い馬達。全の調和が合い、聖域の様に時間が止まり、呼吸を合わせていた。あの景色は鮮烈に覚えている。自然と一体になる幸福感。素晴らしい景色だった。

私はCAMPFIREで紗栄子さんのクラウドファンディングにお金を使った。返礼品はTシャツ。Tシャツに7000円もかけた事もないのに。この人の想いに自分が見た景色を重ねたかった。1円2円の話じゃない、7000円だ。母が何年経っても捻出できる金額ではない。それを承知で支援した。

CAMPFIREでは、目標額に対しての達成度が%で確認できる。紗栄子さんの影響力が半端なかったのだろう、期限日までに目標額を優に振り切って潤沢な資金が集まっていた。

随分前に申込をしたのだけれど、なかなか返礼品は送られて来なかった。恐らく予想以上の支援者に追いつけなかったのだと思う。それが先日、届いた。Tシャツを見て、可愛くて気に入った。馬のマークがチラッとついていて、タグに Think Future と書いてある。そう、私は紗栄子さんと志を共にし未来に賭けた。牧場の経営に何かしら役に立てていると思うと、私の7000円には意義があったと感じ、嬉しくなった。最高の認定証だった。

その時また母の言葉を思い出した。けれど感じ方が前と違った。

長い時間をかけて、母の言葉を募金はするな、という解釈から自分にとって価値があると思うものにきちんとお金を使え、そう言いたかったんだと気づいた。それが1円2円でも、何万円でも変わりない。

今回、私は自分で働いて得たお金で、自分にとって大事なものにお金を使った。それは母と同じ。私には子供がいないから、一見全く別次元に思えるけれど、本質は同じ。人は自分だったり、家族だったり、大事なものを想って働く。それで得た対価を、何に使うべきか見極めてお金を使う。そうして経済は回っていく。自分らしくある為に、大事な何かと幸せを分かつ為に。

いま振り返ると、あの言葉は母が見せた一瞬の隙だったのかなとも思う。母でもない、妻でもない、自分自身の素の言葉。私は知らず知らずのうちに母として常に正しい判断をするよう圧力をかけていたのかも知れない。母だって
子育ては手探りで、模範とならねばと常にプレッシャーを感じ、疲れただろう。もっと母に寄り添っていれば、何で褒めてもらえないのかなんて、悲しむ事はなかったのに。

はたらくという事。それははたらいて得たお金を何に使いたいかによって変わるもの。自己実現に使ってもいい、大事な人を幸せにする為に使ってもいい、誰かの夢に自分のあり方を重ねてもいい。何だってできる。自分のお金ならば。お金なんて度返しでやりたい事をやるという人もいるかも知れない。それだって1つのはたらき方だし、居心地の良さを買っているのだ。

そう思いながら今日も私は眠る街を背に出勤する。
いってきます。

#はたらくってなんだろう

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