第52回「伊豆下田蓮台寺物語(前編)~持つべきものは……」
昨日、友人で、温泉エッセイストの山崎まゆみさんを招いて、「伊豆下田蓮台寺温泉物語」というイベント開催した。
主催はNPO法人伊豆in賀茂6、財団法人地域活性化センターの助成事業だ。
下田市北部に位置する蓮台寺は、下田の元湯のひとつだ。かつて鉱山のあった山から湯が湧き出しており、奈良時代に活躍した行基が開湯したとされている。
幕末、下田に黒船が訪れたおり、吉田松陰も湯に浸かり、密航に臨んだが、失敗、松蔭はここ下田で獄に繋がれ、数年後、斬首された。
こうした松陰の話は、ガイドツアーですることになっていた。山崎さんの講演とお弁当、「温泉街蓮台寺をどうしたらいいのか」をテーマにワークショップ、プログラム終了後には、温泉入浴券も付いている。
SNSでは、いまひとつの集まりだったが、新聞に告知が載ると、その日のうちに満席となった。その分、参加者の平均年齢はぐっと高くなる。
なるほど「温泉+山崎まゆみ」らしい構成だと思った。山崎さんは、高齢者にリスナーの多いNHKの「ラジオ深夜便」に月イチで出演しているし、その昔から高齢者キラーとして知られているのだ。だから独身時代には、「エエーん、わたし、おじいちゃんにしかモテないんです」とぼやいていた。
さて、その山崎さん、のっけからやってくれた。
なんと予定していたサフィール踊り子号に乗り遅れたと電話をかけてきたのだ。
「三十分前に東京駅に着いたのですが、満席なんです。次のサフィールも満席。いったいどうなっているんですか?」
年間三分の一は旅をしている彼女は、通常金曜日の出発で、予約を取ることはないという。しかしgoto効果もあって、伊豆は人気で、サフィールもその影響だと思われる。
講演は翌日だったので、大勢に影響はなく、約1時間半遅れで次の踊り子号に乗ってくるという。
僕は妻と、駅に彼女を迎えに行った。
列車が到着、しかし、なかなか山崎さんが降りてこない。旅慣れているはずの彼女がどうしたことか?
すると、最後尾から虚ろな顔をした山崎さんが、カートを引っ張り現れた。手を降って、再会を喜ぶが、反応が今ひとつだ。
どうしたのか?
改札でもたもたしている。まるで触覚を失ったアリのような動きだ。どうやら切符をなくしたようである。昔からドジな面のある人だが、今回ばかりは、いつも以上に、我を忘れたような動きであった。しかも表情すらない。精算機に向かうが、どうしたことか千円札が機械に吸い込まれていかない。
数分後、彼女が改札を抜けた頃には、ホームには人っ子一人残ってなかった。
それから彼女を連れて、友人の宿に寄り、近所の食堂で立ち話をし、NPO事務所に連れて行く。
山崎さんは、どうも本調子でないというか、心ここにあらずという様子であった。それがおしゃべりをしているうちに徐々にほぐれていった。
ひとしきり話して、次に講演会場に挨拶に行く。今は使っていない旅館が舞台だ。
そこでも元女将がにこやかに彼女を迎えてくれた。
山崎さんは、庭でマスクを外して、大きく深呼吸する。
「酸欠だったんじゃないの? だいたい東京は、酸素が薄いと言うしね。田舎は酸素が濃いでしょ?」
「これがコロナ鬱っていうのでしょうか?」
「たしかに、そうかもしれない。東京に暮らす友人でも、鬱っぽくなっている人、結構いるから。それも女性に多いなあ」
「私も、ここ数日、悪いことばかり考えちゃって」
「たぶん、コロナ鬱。それにマスクによる酸欠だね」
彼女はもう一度大きく深呼吸した。表情は硬いままである。
今回の宿泊先は高級旅館『清流荘』である。支配人に紹介し、取材のアテンドを頼んで僕は事務所に戻った。
その夜、僕はシャワーを浴びながら、山崎さんの駅でのうろたえぶりを思い出し、大笑いした。相当に腹の立つことがあった週なので、彼女のうろたえぶりが、ささくれ立っていた僕の心を、一気にほぐしてくれたのだった。
一方、彼女は温泉に浸かって、心底ホッとして泣いたそうである。相変わらずセンチメンタル・ジャーニーな山崎さんなのだった。
講演会本番、彼女は見事な講演を披露してくれた。日本全国を足で稼いだ話の数々は、一級品である。ここまで日本の温泉地や地方のことを話せる人はそうはいない。
僕は、彼女の言葉に確信を持った(内容は秘密)。
ここ数日、僕を悩ませてきた判断は間違いではなかった。
「下田に来て、救われました!」
帰り際、いつもの笑顔と元気さを取り戻した彼女は言った。
この場を借りて、僕も謝意を表したい。ここ数日来の悩みが、確信を持って解決できたのだ。
友は、本当に、かけがえのない存在である。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?