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小説「武光と懐良(たけみつとかねなが)敗れざる者」49



第一〇章  豪雨災害


一、
 
「こいはまたえらか御殿ですのう!」
田舎者丸出しで緒方太郎太夫が間の抜けた声を放った。
一三六七年、正平二十二年、菊池の穴川に暮らす緒方太郎太夫が里人からの嘆願書を持って博多に出てきている。それを武光が案内しようとしているのだった。
宰府守護所(さいふしゅごしょ)あとに創建された征西府御殿がそびえている。
場所は大宰府。現在に伝えられているものはないが、菊池本城御殿よりは大きく壮大な施設であったろうと思われる。
「さすが、征西府じゃ、いやあ、たいしたもんばい、武光様、真実ああたは菊池の誇りじゃ、おいはえらか殿様に仕えられて、幸せたい」
太郎がうれし泣きをして、武光は苦笑した。
「涙もろいのは老け込んだ証拠ぞ、毎年毎年子供を増やしおるそうなが、女房殿に尻を敷かれよるんじゃなかか?」
「そ、そいを言わんでくいやい」
太郎が嫌な顔をして、はよう案内を、と先に立っていく。
大宰府は博多からわずか十七キロの距離にあり、白村江(はくすきのえ)のいくさの時に築かれた。昔官衙(かんが)の置かれた大宰府は大和朝廷の威を九州に及ぼすために平安京を模した街で、朝鮮城である大野城(おおののき)の置かれた山を背後にしてその麓に大宰府政庁跡がある。かつてはその両サイドに筑前国分寺と唐から戻った空海が滞在した観世音寺が控えていた。七世紀後半に西海道の統治、外交と貿易の拠点として建設された街だった。その大宰府に管理された国際港が博多である。
「時代が下ってからは大宰府は長く少弐一族の支配によって運営されてきたつじゃ」
武光の説明に、太郎が「はあ」と感心しきりだ。
この物語の当時は大宰府政庁は既になく、ただ代わりに近年まで近くに少弐一族の館が構えられていた。それが宰府守護所で、少弐一族が宰府守護として政庁を構えていた。
そこを攻め立てた時に焼き払い、跡地に御殿を建てたのが新政権たる征西府だった。
宝満山(ほうまんざん)には有智山城(うちやまじょう)という詰めの城が置かれてあったが、大保原(おおほばる)で威勢を失って後、少弐一族は追い落とされ、有地山城も落とされて、少弐頼尚(しょうによりひさ)は大宰府から逃げ落ちていった。
大保原の戦いの敗北が潮目を決定的に変え、少弐一族は多少の変遷はあれ、結局歴史の表舞台から消え去っていったのだった。
「攻め取ったのは棟梁ちゅうこつじゃものな」
太郎が満面の笑顔で言うように、大保原以来上昇機運に乗った武光たち菊池勢が今は占領している。武光は親王を奉じ、征西府を菊池から大宰府へ進めた。
大宰府という栄光の街に征西府を進出させることは菊池一族には悲願だったが、南朝に皇統統一を図るため、いずれ京に攻め上る使命を持った親王にも悲願の地だった。
そしてそれは果たされた。
武光は成長した武政を連れて精鋭二〇〇〇を大宰府に常駐させ、親王の周辺を守った。
武光や幹部たちは周辺に館を構え、親王は御殿内に起居した。
「大宰府征西府は南朝の安定した政権中枢というわけよ、とはいえ、九州は未だ抵抗勢力が反抗の隙を狙いおる、どいつもこいつもしぶといわい」
「なーん、太宰府でも親王様は人から宮さまと奉られおるわ、大したもんたい、棟梁の采配あって都の繁栄を取り戻したのじゃもの」
「何度も兵火におうて焼け落ちた太宰府天満宮を、我ら征西府によって新造し、新たな荘園を寄進してやったわ」
武光が自慢して笑った。
「ああたは太宰府の救いの神じゃと皆が言うておるち、拝まれねばなるまいよ」
と太郎はおどけて武光を拝んで見せた。武光は苦笑しながらこの数年の軌跡を思い返していた。武光は菊池から大宰府へ通じる軍道を整備させ、物資の運搬を容易にした。兵站の補給路としてだった。博多湊は底ざらえがなされ、大型船の改修ドックが整備された。唐房(とうぼう)には海の民があふれ、異人達が以前にも増して引きも切らず、嬌声が飛び交った。経済はにぎわい、華やいだ日々に大宰府の人々は征西府を心からたたえ喜んでいた。
征西府として大きな変化は京から後村上天皇の第六皇子、伊倉の宮良成親王(当時六歳)を迎えていることだった。良成親王(よしなりしんのう)には懐良親王の後継の任務が期待された。菊池が棟梁として直接の采配を武光から武政に移譲しようとしているように、征西府においても世代変わりしての権勢維持が意識されていた。
本州の南朝勢にいよいよ勢いが失われ、後小松天皇と側近たちは征西府に東征してもらって窮状を救ってもらうよりも、むしろ勢力を九州に集めて九州から北朝を突き崩してもらいたいと考え始めたこともあった。
「なんちかんち、征西府が大宰府入りして六年、近頃九州は鎮まって、菊池ではありがたかこつと噂しよりますばいなあ」
太郎は陳情の筋も忘れてひたすら征西府の繁栄に目を見張った。
 
ここ数年、太宰府入りした征西府は南朝方に下った九州武士団を押さえて九州経営にいそしんでいた。もちろんその目的は南北朝統一を目指していつか東征し、京の北朝勢力を下して皇統統一することにある。その狙いは当然のように九州各武士団には徹底されており、かつて争ってきたライバル豪族たちも南朝と命運を共にすべく恭順し、年貢を納め、徴兵に応じ、東征の号令のかかる時を待っていた。
九州武士団には南朝方として日本統一に貢献し、一族の命運を将来へつなげようという気運がようやく盛り上がり始めていた。それだけの可能性を征西府は見せていたのである。
そんな九州南朝方のシンボルが牧の宮懐良親王であることは周知されていたが、征西府の実質的求心力は菊池武光その人にあった。
こつ然と現れて菊池一族の棟梁になりあがったかと思いきや、誰もが二の足を踏んだ牧の宮懐良親王を迎え入れ、南朝の旗印を掲げ、連戦連勝してその存在感を示した。
のみならず、菊池川流域を統治してさらには倭寇をプロデュースして海外にまで経済圏を広げ、菊地を都として九州最大の城塞都市として整備したその手腕。
そのいくさ神としての存在感は大保原の戦いで決定的カリスマ性を持つに至った。
人々にとって、勝利という二文字は決定的な影響力を持つ。
島津、伊東、原田、秋月、三原、山鹿氏など、かつて覇を競って争い合った武士団たちがこぞって征西府へ通い、指示を仰いだが、それに対応する武光の魅力がさらに彼らを引き付けた。勝ち誇らず、下積み経験の長いもの特有のざっくばらんな庶民性を示し、たちまちどの武将たちとも打ち解けて見せた。
武将たちは牧の宮の威光にひれ伏しながらも、菊地武光との同盟を喜んだ。
むろん、九州の情勢が南朝方に有利であるからであり、その勢力内に自分の種族が置かれて損がないことが条件であり、条件が変わればたちまち手の平を返すであろうことは火を見るより明らかであった。とはいえ、それでも多くの武将たちが武光と手を取り合えることを喜んだ。片意地を張り、勝敗にこだわり、勝者の目で敗者を見下す相手に対しては、たとえ利害が一致しようとも、九州武士団はなびかぬ頑固さがある。
武将たちは武光の男気ある人となりに惚れ込んだのだった。
そんな武光の人望とカリスマ性に、征西府は支えられて今日に至っている。
とはいえ、武光は自ら先頭に立って九州武士団を右へ左へ引きずり回すような真似はしていない。あくまで征西府の運営は牧の宮懐良親王と、親王を守って西下してきた公卿たちが主管し、それを菊池武士団及び有力豪族たちの選抜された委員たちで行われている。
菊地武光の立場はどこまでも菊池一族の棟梁としての域を出てはいない。
それでそのカリスマ性と人気によって、武将たちが一目置き、武光の隠然たる存在感によって征西府は支えられているのだった。
 
武光は太郎を征西府のまつりごとの場にも案内した。
征西府御殿では博多の宗一族など海商どもからの税収の管理と使い道、寺領の適性を検地し、各種訴えに対する裁判を行う、というまつりごとが執り行われている。
その政務室で太郎は恐縮して小さくなって皆の会話に目を丸くしている。
かつては頼元が担当した恩賞のあてがいや係争問題を、今は政務の中心人物饗庭道哲(あえばどうてつ)や五条頼元の子、頼遠、頼治らが行う。
職制として執行、権大監三人、小監一人、大典一人が置かれ、花押で執行許可を与えた。
「若手も加わり、代替わりも順調、めでたか」
と城隆顕(じょうたけあき)が言う。武澄、武貫(たけつら)は既に亡いが、四十七歳になった城隆顕は健在だ。老練な軍師として征西府の軍勢の采配には決定的な権力を保持している。菊池軍を指揮する実質的司令官は武光の二十一歳になる息子の武政だった。
旧菊池本家はすでに勢いを失い、武光の家系が新たな本家として菊池を統括していた。
亡くなった武澄の息子の武安が本家筋であるという立場を捨てて武政を補佐している。
武安は武政と相談のうえ、佐賀の姉川に城を築き一帯を姉川一族に守らせた。
土地はよく治まり、年貢も無事に取り立てられている。
姉川一族を立ててはいるが、姉川を実質管理しているのは武安の菊池一族であり、わずかではあっても、武政や武安にはそういう成功体験があって、自分たちの九州経営方針への自信となっていた。
武政は父武光に相談しながら、九州全域の政権維持をはかるべきところだが、この親子にはここ数年来、隙間風が吹いている。
今日も武政は城隆顕に相談する風を装いながら、武光による政権への影響力を牽制しようとして、あえてことさらに問題をあげつらう。
「少弐はすでになく、大友勢も鎮まってはおりまするが、どうにも不穏でござります」
武政が城隆顕(じょうたけあき)に訴えると、武安が尻えに乗った。
「各部族ども、厳しく押さえつけて領地を召し上げ、反抗する力を奪い取っておくべきではござらぬか、今からでも命令を出せばよかです」
威勢のいい意見を突き付けられても城隆顕は苦笑して取り合わない。
「若いもんに棟梁ほどん知恵がつくまでは、なかなか新たな策には乗れぬな」
大保原以来、征西府は「降参半分の法」というやり方で打ち破った豪族連中を従えようとしてきた。大保原の大いくさの後も北朝勢との戦いは熾烈を極め、征西府が大宰府入りするまでには多大の苦難があった。相手を打ち破っても、その後の反抗をどう抑え込むかが大きな問題だった。そこで武光が編み出したのが、鎌倉以来の武家作法として常々行われていた「降参半分の法」をアレンジして活用するやり方だった。
北朝に味方して征西府にたてついたものでも、所領は半分残す、というのが「降参半分の法」だったが、武光たちは徹底して、一切を召し上げない、すなわち全領地を安堵する、というやり方を取った。窮鼠(きゅうそ)は猫をはむ。追い詰めるのではなく、利をもって吊り、連合しようとしたのだった。そこにはやはり武光の個性が強く働いていたのではないか。
だが、それこそが武政たち若手の不満の原因となっていた。
「奴らに所領を安堵するけん、余力が残り、反抗の種になり申す、しかるべく領地を召し上げ、そこに菊池子飼いの武将を配すべきなのです!」
「今からでも遅そうはござらぬ、島津や大友勢の底力を削ぐべきでござろう」
武政と武安が城隆顕を突き上げるが、城隆顕は苦笑して言う。
「力押しで相手から根こそぎ奪い取り、圧力で屈服させるというやり方では無理が来る、棟梁は皆が思いを合わせて一つの形に向かうという道筋を思い描いておらるるのじゃ、武力は必要、じゃがのう、万能ではなかぞ」
力業は行うにたやすい。だが、必ず敵意を生み、潜在的な反勢力を形作らせてしまう。それを城隆顕は若手に指導しようとしている。
「…知恵じゃ、各豪族どもを抑え込んで完全に支配権を確立するためには、相当な知恵がなければならんでのう、最近の棟梁が抱える思案はそこなのじゃよ、そこなのではあるのじゃが、なあ…」
城隆顕までが思案顔となり、若手にはそれがもどかしい。
「その甘さが命取りにならねばよかじゃが」
武政も武安もそれ以上を言い募りはしないが、彼らの中には不満がたまりきっている。
不満の種は財政上のことや、征西府の方針のこと、博多の運営に関してなど、限りない。要は世代間の対立なのだった。
武光や城隆顕の主導で今もなお、すべてが動いていること自体が、若手には鬱屈を引き起こしているようだ。それを相手にしない武光の関心は、何をもってすれば九州武士団をまとめ上げ、対北朝戦において揺るがぬ戦力を作り上げることができるか、という点にあった。 だが、武光にももやもやとした案以上の具体性が持てていない。
その何かが掴めないばかりに、征西府は軍事力に頼るしかなく、軍勢派遣を繰り返してきた。武光の本意ではないが、小さな反抗の目もつぼみのうちに摘み取らなければならないと苦心していた。その争いの中、菊池武盛は斯波氏経(しばうじつね)、大友氏時(おおともうじとき)らと戦い、敗れて討ち死にしている。武光は長者原に少弐冬資、斯波氏経と戦い、これを破った。その後豊後の諸城を攻めた。厚東の軍、大内軍とも菊池は戦った。
九州は南朝の旗色濃しとはいえ、実質未だに不安定な情勢の中にある。
それらの要素が旧世代と新世代の間に亀裂を作り始めている。
「じゃっど、征西府の大宰府進出後も、我ら菊池一族に気を抜ける時はなかったわい、ぬしら若いもんには苦労を掛けるが、やむを得ぬわい、のう、太郎」
武光は暢気な風情で太郎に自分の苦労を語り、その様子もまた武政や武安を苛立たせる。
そんな日々の中、武光の指示で、政権運営の実務は表向き武政に主権が移されようとしており、武光は自邸にこもってものを考える日々が多くなっている。
九州征西府を揺るがせない確かな何か。それは理念だろうか?いや、理念では足りない、と武光は思う。具体的な何らかの行動原理だ、と思っている。
それは「あれ」だ、との思いが武光にはある。あの構想をもってするならば、九州諸豪族を真の意味で結束させ得るのではないか。そんなアイデアがあって、武光は城隆顕にだけは内密で相談をかけている。いずれにせよ、現況では九州北朝勢を相手の情勢はまだ連日武光たちを休ませてはくれていない。九州はいまだに揺らいでいる。
若さを失ったせいがあったかもしれない。武光は三九歳、当時の四〇は今の五〇代には当ろう、壮年であり、体力は未だにあったが、思慮分別の重みが加わって、荘重な大人となっていた。武光は考え込むことが多くなっている。
太郎は豪壮な御殿内の仕様に目を見張り、見まわして難しい話など聞いてはいない。
 
「後醍醐帝の宿願を果たせず終わるのはいかにも無念でござる…、帝、申し訳もござりませぬ、…ただ、京で死にとうござった、…この先、宮さま、ご無事で」
褥(しとね)の中の老人はやせ衰えた手を差し伸べた。
「ご苦労だった、…お前は父であった、わたしは不肖の息子だったが、よく耐えてくれた、ありがとう、頼元」
父と言われて感激し、涙をいっぱいにためた懐良の手を握り頼元は自分も涙をあふれさせた。頼元は七十八歳となって、老衰していた。
三奈木の荘の五条頼元の隠居所の奥の部屋だ。
武光と懐良の背後には同行してきた武政が控えている。
頼元は征西府が大宰府進出を果たして落ち着いた後、八女郡の星野村、矢部に領地を賜って一族本願の地としていた。先年亡くなった良氏が妻子をなして、この地に一族継続の道筋が立てられてある。そこからほど近い三奈木の荘に頼元の隠居所が構えられている。
その隠居所の奥の間に、今頼元は伏せっている。
「宮様、…宮様」
あとは弱った息の下で言葉にならない。
「お前の望みは代わって私が果たす、頼元、心やすう成仏いたせよ」
見舞っているのは親王(三六)と武光、そして中院義定(七十三)の三人だった。
懐良も万感胸に迫って言葉を詰まらせた。
頼元の視線が懐良から隣の武光に移された。頼元は涙ながらに武光の手を取った。
「深いご縁を頂いた、貴殿のお陰で我らは命を長らえ、大宰府に征西府を進めることもでき申した、感謝してもし足りぬことでござる、…後をよしなにお頼み参らせる、武光殿、…牧の宮様をお願いいたす、…東征を、…皇統統一を、必ず」
武光が穏やかな笑顔を見せ、手を握り返した。
「お約束いたしますばい」
武光が答えると、頼元はそれで安心したように目を閉じた。
一三六七年、正平二二年五月二八日、筑前三奈木の庄で五条頼元が七十八歳で病没した。
老いて涙もろくなった中院義定(なかのいんよしさだ)はいつまでも頼元の骨と皮になった手を握りしめ、涙を目いっぱいに浮かべ、生気を失って行く頼元の顔を見つめている。
 
厚い雲に覆われて青空が見えていないが、例年なら三奈木の荘の空は五月晴れのころだ。
なのにもう梅雨入りしたかのように暗くじめついた雲の下、新しい墓石の前で手を合わせる武光と懐良の姿がある。墓石を見つめて座り込み動かないのは中院義定だ。
「…どんなにか京の地を踏みたかったであろうな」
懐良が呟いて、武光には言葉がない。
武政と緒方太郎太夫が控えて沈鬱(ちんうつ)な表情を浮かべている。
頼元の息子の良氏は大保原の合戦の翌年、怪我が悪化して亡くなっており、頼元の晩年は満たされていただろうか、と、思いやっている懐良の気持ちは痛いほどわかる。
牧の宮の東征を願いながら死んでいった頼元、良氏親子。
「武光、…わしは必ず答えてやるぞ、頼元の執念に」
硬い表情で言う懐良親王を見て、武光は親王がまさに自分の想いとして東征を望んでいることを痛感する。武政もじっと懐良親王の思いを汲もうと見つめた。
かつて虚無だといった親王の人生観は変わり、自分自身の信念を抱いている。大保原(おおほばる)のいくさ以来、懐良の左腕は動かなくなってしまっており、体の脇に沿わせて目立たなくはしているが、もはや太刀を取って勇壮な働きはできないだろう。
左足を微かに引きずってもいた。
あの美しく完璧だった親王が、古強者として名誉であるとはいえ、五体満足な体でないことは、武光の胸を痛めた。自分がそう仕向けて親王は不自由な体になられた。
その親王は吉野の南朝から矢の催促をされて、心を痛められている。
吉野の南朝は相変わらず北朝勢の前に風前の灯火(ともしび)、壊滅寸前で九州の征西府だけが望みの綱となっている。すべては懐良の双肩に掛かっているといっても過言ではない。
「…予定している東征の準備、怠りなく進めよ」
「はい、身共(みども)はこの足で菊池へ帰ってあとの固めをしてまいります」
そうは言いながらも、武光は先年来の天候不順のため、豪雨災害があった菊池を気にしている。緒方太郎太夫が嘆願に来た筋というのはそれだった。菊池には相当な被害が出ており、 迫った年貢おさめの内検に対して手加減をというのだった。
だが、今うかつに懐良にそんな話はできない。
必ず支障なく準備いたしますとの約束に念押しをした。
親王が思いつめた顔で武光を見やった。
「…急ごう、武光、まだまだ京の都は遠い、わしらもあの日のような若者ではない、ぐずぐずしておれば、頼元のように朽ちていくことになる」
という。武光は親王の想いを受けて頷いた。
「気は抜きませぬ、必ず親王様を京にお連れ致します」
親王と中院義定を博多へ送り出した後、武光は武政、緒方太郎と共にわずかな供回りで山道を菊池へ向かった。
 


《今回の登場人物》

〇菊池武光(豊田の十郎)
菊池武時の息子ながら身分の低い女の子供であったために飛び地をあてがわれて無視されて育つ。しかし父への思慕の思いを胸に秘め、菊池ピンチの時救世主として登場、菊池十五代棟梁として懐良親王を戴き、九州統一、皇統統一という道筋に菊池の未来を切り開こうとする。
 
〇懐良親王(かねながしんのう)
後醍醐帝の末子。南朝巻き返しの最後の希望となって征西将軍とされるも流浪の果てに菊池武光に迎えられ、やっと希望を見出す。武光の支えで九州を統一、やがて東征して皇統を統一するか、九州王朝を開くかの岐路に立たされる。

〇良成親王(よしなりしんのう)

〇城隆顕(じょうたかあき)
菊池一族の別れで城一族棟梁。抜群の軍略家で有能。最後まで武光に夢をかける。
知的な武将。

 〇五条頼元
清原氏の出で、代々儒学を持って朝廷に出仕した。懐良親王の侍従として京を発ち、親王を薫陶し育て上げる。九州で親王、武光の補佐をして征西府発展の為に生涯を尽くす。
 
〇五条頼氏
頼元の息子。
 
〇中院義定(なかのいんよしさだ)、持房親子
公卿武士、侍従。
 
〇池尻胤房、坊門資世
侍従たち。

〇饗庭童哲(あえばどうてつ)
南朝方武将。征西府幹部。

〇菊池武政(きくちたけまさ)
武光の息子。菊池16代当主となる。

〇菊池武安(きくちたけやす)

〇緒方太郎太夫(おがたたろうだゆう)
幼名は太郎。武光の郎党。長じては腹心の部下、親友として生涯を仕える。
 
 

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