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小説「武光と懐良(たけみつとかねなが)敗れざる者」45


第九章    大保原の戦い


五、
 
正観寺の境内でも蝉がうるさく鳴いている。
水の張られた盥があり、剃髪の準備がなされた方丈に美夜受(三〇)の姿がある。
差し向かいになっているのは大方元恢(たいほうげんかい)和尚で、濡れ縁に太郎太夫が控えている。美夜受にせっつかれてこの日までをすべて段取りしたのは太郎だった。
「そなたはなぜ髪をおろす?」
大方元恢和尚に問われ、あの未熟な小僧のために仏に祈りたいのです、と美夜受は答えた。
「未熟な小僧?」
「菊池武光になりおわせた豊田の小僧です」
元恢和尚は太郎太夫からすでに美夜受と武光のあれこれは聞かされている。
武光が美夜受をおもちゃでも投げ出すように、簡単に懐良親王に与えてしまい、美夜受が深く傷ついて武光を恨んでいると。だが、今の一言で、元恢和尚は美夜受の屈折した愛が未だに武光に向けられていることを察した。しかし、何を祈ろうというのか。
「…小僧の頃から同じ、十郎は博多の悪夢から逃れようとあがいておりまする、…親父様の菊池を頼んだぞ、との言葉に縛られ続けておるのですばいた、…そのあがきのなかで、菊池の明日を担おうと、何かを掴むために私を親王様の前に投げ出しおった」
静かに語るその瞳に、無念や怒りや様々な想念を押し殺して鎮まり、今の美夜受は思い詰めた挙句、何かを耐えているかのようだった。
「私がどんなに怒っても悲しんでも、あ奴は豊田のあくたれの頃のまま、わがまま勝手に私を使い捨てる、あまつさえ、十郎は私ではなく、別な想い人を」
吐き捨てるようにいった美夜受の言葉に太郎は、え?と顔を上げた。
「それは?」
元恢和尚が問い、憎悪のような怒りをたぎらせていく美夜受。
しかしそれには答えず、元恢の目をまっすぐに見た。
「此度は万に一つも勝てぬいくさ、と人が噂いたします、そうなのでしょうか?」
「…それはおいには分からんな」
菊池界隈ではこの度の筑後のいくさは北朝、南朝の決戦のいくさと皆が噂し、北朝勢の数を頼んだ勢いに、これは勝てまいと予測するものが多くあると和尚は聞いていた。
それでもこの数年、菊池は征西府のお陰で治安が安定し、武光の指揮の下で空前の発達を遂げてきており、生活ははっきりと向上して住民は武光と懐良を支持している。
南朝の目指すところは皇統統一、その成否はいつにかかって九州南朝、すなわち征西府の帰趨(きすう)に負うているという。もし武光と宮様がことを成し遂げるとするならば、もしや中央に菊池幕府さえ実現するのではないか、と、途方もない話をするものが出てきてもいる。万に一つも勝てぬだろうといいながら、それでも反戦気分がないのは期待のせいだ。
菊池の人々は夢を見始めていた。武光が親王を奉じ、九州を統べたのちに東征し、京へ攻め登って北朝を打ち負かす。さらに皇統統一の後、菊池幕府が日本国全体を支配し差配して、 この菊池が日本の中心になることもありえると。それはあまりにも甘美な夢だった。
この菊池がかつての平氏や源氏、北条家などに並んで国に覇を唱える。それを夢物語と思わせないのが雲の上宮(くものえぐう)に御所を構えた牧の宮懐良の存在だった。
その夢が菊池の人々を酔わせ高揚させており、リスクを取る気持ちにさせている。
兵数によって筑後のいくさでの勝率が低いとはいえ、いくさ神菊池武光と、白面の征西将軍懐良なら逆転の奇蹟を呼び込めるのではないか、そんな気分が漂っていた。
そんな人々の噂話を聞かされ、美夜受は武光が勝負の場に立たされていると感じた。
「あ奴はどうしようもなかお調子もんです、…子供の頃の悪夢に未だにうかされて、いくさの道に突き進む馬鹿、…あぎゃんバカはわたしのようなもんでも祈ってやらねば仏にも見放されましょう、此度はまた九州武士団の命を的にいくさまでしよる、敵は六万というではなかですか、バカじゃ、バカじゃが、…あ奴は引き返しもさん、…あ奴の業ったかりは救いがない、せめて私が祈ってやるしかなかです、そいじゃで」
美夜受はさらに何か言い募ろうとするが、吹っ切りたいのじゃな、と大方元恢和尚が遮った。
「…いつまでも煮え切らぬ自分を捨ててしまいたかつじゃろう」
図星を刺されて美夜受の表情が固まった。
理屈は色々つけられようが、武光、いや、親王へさえ向けられてしまった自分の愛をもてあまし、疲れ果て、それを捨て去りたいと思う美夜受なのだった。男に振り回されて生きるのはたくさんだと。それでもたっぷりの未練を美夜受は内側に飼っている。
大方元恢の目に射すくめられ、これ以上飾れなくなった美夜受は涙をこぼした。
肩を震わせて泣いた。救われた思いだった。誰にも打ち明けられず、理解も得られず、頑なにおのれを閉ざした挙句、行き詰って生きる力を失いかけている。
「…分かった、尼としての虎姫、わしが預かろう」
大方元恢が合図をして、若い僧が二人、美夜受の両脇から近づいた。
大方元恢が大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)を唱え始め、僧たちが美夜受の髪を落としにかかった。
「なむからたんのーとらやーやー」
という大方元恢のいぶされたような声が響いて、ばさりと切られた大きな髪の塊が美夜受の膝に落ちた時、太郎が息をのんだ。
武光様に許しを得んでよかつか、と心の中では思うも、言葉にはできないままうつむいた。
おのれの無力さになすすべがなく、ただ涙をこぼした。
 
穴川は龍門のさらに奥にあり、迫間川(はざまがわ)上流の一角だ。
緒方太郎太夫がとぼとぼと歩いて帰ってきた。
矢筈岳を前面にした川沿いに集落が固まり、その中に太郎太夫の屋敷はある。
藁ぶきの百姓家を改修したものだが、馬と牛の入った畜舎も備えている。
「殿さま!」
嬉しそうに迎えたのは村娘のぬいだった。近頃太郎太夫に何かと世話を焼き、誘えば褥(しとね)に潜り込んでも来ようと太郎は感じている。美夜受に拒否されて、このぬいを女房に、という気になりかけているが、太郎にはわだかまっていることがある。
美夜受に言われた「十郎を守れ、誠を尽くせ」という言葉だった。
武光には菊池を守れと命じられているが、それが美夜受を守れという意味だと解釈している。しかし、その美夜受は守ってほしがってなどいない。
郎党たちが「お帰り」なぞと声をかけながら雑用に励むそばを通り抜けて、家の中へ向かう太郎をぬいが追う。桶に水を汲んで太郎のわらじを脱がせて足を洗う。
太郎は火のない囲炉裏の自分の場所に座って考え込んでしまう。
おいはどぎゃんすりゃよかつか!
ずっと迷ってきた太郎だが、ぬいがその顔色を見て言う。
「思い残すことのう、やっておいでませ、ああたは武光様の竹馬の友じゃとか、此度の大いくさ、武光様のご馬前をお守りなされ、ぬいは、待っておりますけ」
と、湯呑に酒を注いで差し出した。
太郎はその濁り酒をしみじみ味わって飲み干し、顔を上げた。
その言葉で踏ん切りがついた。
「着替える、いくさ支度を、いや、わし一人じゃ、村の衆は行かんでよか、お許しがないのに行くのだけん」
ぬいにてつだわせて、短ばかまに小袖のまま、胴丸と草刷り、なぎなたを取った太郎は厩から馬を引きずり出した。農作用の駄馬だったが、またがり乗って腹を蹴った。
馬はどたどたと走り出したが、人の速さとどっこいだった。
「待っとりますでな、太郎太夫様、ぬいは待っとりますでな!」
明るく手を振られたが、見返る余裕もなく、太郎は筑後を目指して一散に、いや、よたよたのろのろと進んでいく。
 
浜御殿では出撃準備が整って、軍勢は棟梁惟村の采配を待っている。
惟澄が郎党たちを引き連れて訪ねてきたのはそんな時だった。
「来てくれ」
惟澄に言われて奥の間に惟村が追った。
座り込んで腕組みし、長い間惟澄は何も言わない。
郎党たちが控えて動かない。
惟村は焦れて太刀の鐺(こじり)を床に立てた。
「本家は本日出撃いたす、阿蘇家の半分の勢力でも仕方なか、少弐頼尚殿にお返事いたしましたけん」
と、立とうとするが、惟澄が襲い掛かり、太刀を奪って郎党に投げ、自分は惟村を羽交い絞めにして首に抜いた脇差を突き付けた。
「な、何をなさるとか⁉」
「…日和見をして動かぬのは武時様とぬしのおはこであろうが、此度もそのようにいたせ」
「なんじゃと⁉」
「どちらの為にも阿蘇は動かぬ!」
「親父殿、おのれ!」
惟村が激怒して惟澄を突き放すが、抜いた蛍丸を突き付けた惟澄。
「動かぬ!」
断固として言われ、惟村は硬直した。
 
高良山山上にはわずかに風がある。
懐良の本陣に全軍の指揮官らが集結している。
武光や城隆顕、赤星武貫など、南朝側の首脳部は元より、懐良の傍には中院義定が侍り、五条頼元や良氏、池尻胤房、坊門資世たち公家たちもいる。
九条大外記が問う。
「相変わらず、少弐は陣を移動させて居所が掴めもさぬ、鬼面党もさすがに敵陣営奥深くでは手も足も出ぬとのことじゃが…」
桃井左京亮が同調する。
「時間をおけばますますわが軍は不利になりもすぞ」
武光が閉じていた眼を開けた。
「明日未明をもって進撃を開始する、城隆顕、皆に戦術を伝えてくれ」
は、と頭を下げ、城隆顕が戦術を指示した。
「まず、一隊をひそかに宝満川沿いに北上させて、大保原後方の少弐の本陣を探させ申す、その間主力は太宰頼光、太宰頼奏の陣を攻撃いたします、不意を突かれれば敵は狼狽しもそう、前面を守る敵も慌てますばいた、さらにそこへ総軍が攻めかかる」
「うむ、どうじゃ?」
皆賛成だが、山隈原に布陣せる大友軍に対しては如何に、と葉室左衛門の督が問う。
「そちらは島津高澄、渋谷守重、日向の伊藤、畠山の諸勢一万三千騎で抑えて頂き申そう」
城隆顕にはこれだけの大所帯の受け持ち配備がきれいに整理されて頭に入っており、迷うことなく答えた。
「陣構えとして、先陣は三隊、前衛は菊池武明率いる二千余騎、右翼は名和殿の五千余騎、左翼は岩松殿率いる一千余騎にお願いいたす、第二陣としては菊池武信、赤星武貫の千五百騎をあて、第三陣には武光様率いる三千余騎、そして第四陣は牧の宮様を奉ずる三千余騎、しんがりは新田氏率いる二千余騎にお願いしたか、全体を飛燕の陣に仕立て申す」
みなが納得したが、新田一族の瀬良田大膳が言う。
「この戦法の場合、問題は索敵行動する遊撃隊です、全軍の先に立ち、露払いをしてもらわねばならんたい、じゃが、こいはあぶなか役回りじゃ、敵に遭遇すれば囮にならねばならんでの、まず生きては戻れぬ役回り」
「…そいはおいが引き受けるしかなかじゃのう」
赤星武貫がわらっていうが、いや、と武光が制した。
「ぬしには本隊の中にあってもらわねばならん、その役回りは、武政、おまんに任せたか」
みなが座の端に控えていた武政を見返った。
一同に驚きの声が漏れた。
十三歳の少年が控えていたからだ。
武政は強張った顔をまっすぐ向け、父を見返して静かに答えた。
「承知仕り申した」
え、となった一同が、本気か、と武光を見やった。
それを見返して武光が笑う。
「我が一子武政にござる、死に所は心得てござるで、役目を仕損ずることはなか、安心してお任せ頂く」
最も危険な役回りを息子に振られては、誰もが卑怯未練な振る舞いを封じられたのに等しい。我が息子に万死必然の役回りを引き受けさせる菊池一族棟梁の元で戦うことに、誰もが異存ないという気持ちがみなぎった。
みながそれぞれの動きを飲み込んだことを見て、武光は心得を申し渡す。
「相手は大軍じゃが、死に狂いできるものはそうはあるまい、…北朝勢の弱みは優勢なことじゃ、…優勢というのは勝てるという見込みの上に胡坐(あぐら)をかいておるということ、…その前提が突き崩されれば一気に崩れる、…みな、よかか、…おいはこの鎧で出陣する」
武光はすでに青色の縅に飾られた鎧を着用している。
「この鎧なら戦場のどこからでもおいを見つけられよう、何か不安が萌せばこの鎧を探されよ、そこにはわしが北朝勢を打ち砕きおる姿がある、…狙うは少弐頼尚ただ一人、奴さえ見いだせれば、あとはまっすぐに突撃して勢いで打ち破る、姑息な小細工を弄すな、全力で打突せよ!よかな」
いつもの武光のいくさ場での信念だった。
「恐れながら、牧の宮懐良親王さまと武光殿にはこの高良山本陣にお留まり頂いて、全軍への指揮を出して頂いた方がよかじゃあるまいか、貴方が先頭を切って突撃し、討ち死になされたら、同じ崩れがこちらにも起きましょう」
名和長年の遺児、名和長秋が心配して申し出て、武光が懐良を見返った。
懐良は黄金色の縅(おどし)に飾られた鎧を着用している。
懐良が強張りながらも笑った。それを受けて微笑み、武光が長秋を見やる。
「総大将、牧の宮懐良親王も、副将のわしも討たれぬよ、われらにはいくさ神がついて居るでの、われらについて駆けられよ、必ず敵の大将首を上げる!」
言葉の勢いもあり、皆が燃え立った。
おおーっと皆から気迫の声が漏れた。
武光も恐怖心に蓋をし、全身を闘争心で燃え上がらせた。
総員が燃え立っていた。
 
筑後原への山道を太郎の馬が駆けている。
いくら腹に蹴りを入れても、相変わらずのそのそと駆ける真似だけでごまかそうとする馬だった。そのうち道端の草に歩み寄り、もぐもぐと食い始める。
「ええ、くそ、走れ!走らんか、筑後は向こうじゃ、こいではいくさが終わってしまうに、ええ、この駄馬めが、無駄飯食い!」
飛び降りて轡(くつわ)を取るが、やはり馬は草を食い続けるばかり。
尻を押しても蹴飛ばしても言うことを聞く気配はない。
「勝手にせえ!」
太郎太夫はなぎなたを担いで走り出した。ここから筑後はどう急いでも二日はかかる。
泣きたい思いで太郎は駆けていく。武光の傍にいてやらねば、と思っている。
博多のあの日も、おいがおったので十郎は無事であった、と考えた。
太郎は兄のつもりでいる。直情径行であと先のない愚かな弟をおいが守らぬでだれが守る、とも。金吾亡き今となってはおいしかおらぬではないか!
人は主観の世界ではいつでも快男児になれるものらしい。
ただ、美夜受を想いきりたい、という願いは胸の底に切実にある。
 


《今回の登場人物》

〇菊池武光(豊田の十郎)
菊池武時の息子ながら身分の低い女の子供であったために飛び地をあてがわれて無視されて育つ。しかし父への思慕の思いを胸に秘め、菊池ピンチの時救世主として登場、菊池十五代棟梁として懐良親王を戴き、九州統一、皇統統一という道筋に菊池の未来を切り開こうとする。
 
〇懐良親王(かねながしんのう)
後醍醐帝の末子。南朝巻き返しの最後の希望となって征西将軍とされるも流浪の果てに菊池武光に迎えられ、やっと希望を見出す。武光の支えで九州を統一、やがて東征して皇統を統一するか、九州王朝を開くかの岐路に立たされる。

〇大方元恢(たいほうげんかい)
博多聖福寺の僧だった時幼い武光をかくまい逃がした。
後、武光が聖護寺を菊池一族の菩提寺として建立した時開山として招かれる。
 
〇美夜受・みよず(後の美夜受の尼)
恵良惟澄の娘で武光の幼い頃からの恋人。懐良親王に見初められ、武光から親王にかしづけと命じられて一身を捧げるが、後に尼となって武光に意見をする。
 
〇緒方太郎太夫(おがたたろうだゆう)
幼名は太郎。武光の郎党。長じては腹心の部下、親友として生涯を仕える。
 
〇ぬい
穴川の里の娘。太郎太夫の嫁となる。
 
〇恵良惟澄(えらこれすみ)
阿蘇大宮司家の庶子として阿蘇家異端の立場に立ち、領地が隣り合った武光との絆に生きる道を探そうとするが、阿蘇家のため、武光に最後まで同行することを果たしえず終わる。
 
〇阿蘇惟村(あそこれむら)
阿蘇大宮司家を父惟澄を差し置いて受領した息子。
北朝につくべしと思いながらも果敢な決断ができない。

〇城隆顕(じょうたかあき)
菊池一族の別れで城一族棟梁。抜群の軍略家で有能。最後まで武光に夢をかける。
知的な武将。
 
〇赤星武貫(あかぼしたけつら)
赤星の庄の棟梁。菊池一族の重臣で、初めは武光に反感を持つが、後には尊崇し、一身をささげて共に戦う。野卑だが純情な肥後もっこす。
 
〇九条大外記
南朝方の武将。

〇桃井左京亮
南朝方の武将

〇葉室左衛門の督
南朝方武将

〇瀬良田大善
南朝方武将

〇名和長秋
南朝方武将

〇菊池武政
武光の息子。のちに菊池第一六代を襲封する。



 

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