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九州へ移住して見つけた新しい暮らし⑦


城下町菊池を絵に起こそうという試みは次第に形を取り始めました。

実際描いてみると、これは楽しい作業となりました。

郷土史を調べ、市役所の皆さんに聞き込みをすると、絵にすべき候補地が次第に定まってきました。

皆さん、あそこ、ここと、場所自体にはいろいろと観光名所にすべき候補地を持っておられます。

1菊池都鳥観図小


その聞き込みの過程で、どうやら第15代菊池武光公という人の時代に変革がなされたらしいということが見えてきました。

ここを描くべきという候補地が、やたらに武光公の事績と重なっているのです。

一番大きく言うと、菊池城下町の主要部は惣構えという、小田原の城下町と同じように巨大な城塞都市となっているのですが、それが建設された時期が15代武光公の時代だというのです。

4、守山城御殿・松林能小


5、院の馬場小


6、内裏尾、雲の上宮小


さらに、その惣構えを建設する寸前、南朝の皇子、後醍醐天皇の息子の懐良親王(かねながしんのう)という人を菊池に迎えていました。

後醍醐天皇の皇子を菊池にお迎えする?

それだけでもはてなマークが頭に浮かびますが、さらにそのタイミングで武光公自身が15代に就任している、という時間的符号も見えました。

武光公は豊田の十郎という幼名で、菊地ではなく甲佐で育った人であり、お妾さんの子であった、その15代就任にはどのような意味があったのか、その15代就任と、懐良親王の菊池入りにはどんな関連性があったのか。

そもそも懐良親王はなぜ京から九州へ下り、菊地に入ったのか。

いろいろの疑問が浮かんできて、その疑問にまつわる背景事情も少しづつ見え始めてきました。

しかし、まだこの時は、のちに私が気づくようなとんでもない冒険物語のストーリーは未だ、全体像を私の前に表してはくれていませんでした。

何かもやもやとした物語性のような匂いを嗅ぎながらも、私は未だ城下町菊池自体の絵のバリエーションの多さ、ロマンチックな風景の面白さに目を奪われていたのです。

9、迫間川の断崖小

2、菊池本城 守護の館


城下町菊池を描きおこす作業は続いています。


まず、すべての候補地を実際に足でたどり、現地に立ってああでもないこうでもないと想像をめぐらすのですが、これが私のような好事家にはたまらない至福の時間となったのです。

ここで南北朝時代の人々が建築のために働き、やがては敵に攻め込まれ、命をかけた戦いを展開したのだ、まさにこの場所で、と想像すると、たまらないロマンチックな感覚に襲われて陶然としてしまうのです。

700年の時間を隔てて同じ空間を菊池一族の人々と共有している、という感覚は、好きものにだけ理解してもらえる感覚なのかもしれません。

ところが、こうやって何枚も絵を描き進めていくと、そこで改めて私に意外な気づきが出てきてしまいました。

10、菊ノ城の館小


11、深川 菊の池小

描いたのは市内の主要部にある市民広場や桜の公園、つまり、そこは菊池本城だった場所、それから深川というかつての港湾施設があった場所と、そこにあった旧本城、さらに乗馬や武芸の練習場であった院の馬場や、後醍醐天皇の息子である懐良親王にお住い頂いた雲の上宮、御所通りの賑わい、月見殿、迫間川の断崖、などなどでしたが、ここはただの田舎豪族の本拠地、というには並外れた規模感を持っている、実に巨大な城下町ではないのか、という感覚です。

やがて私は確信するに至りました。
この菊池は単なる田舎豪族の本拠地ではない。

当時としては意図的に建設された巨大な都だったのではないか、という疑いです。

都といえば、天皇家の人、宮家の人がいる都市だと思いますが、確かに菊池には懐良親王という貴人が迎えられています。

菊池本城とされた守山の砦のさらに裏手高台に雲の上宮(くものえぐう)と呼ばれた懐良親王の御所がありました。


12、延寿屋敷小

その守山砦の前面には、本城の中核となる御殿が置かれてあり、その前面に現在の隈府市街が展開しています。

その隈府という町は碁盤の目状に計画された新市街であるとも郷土史家の方から聞かされました。

ここを整理して考えると、こうなります。

それまで300年の栄華を誇ってきた菊池一族と領地。

ところが300年目に菊池武光という15代が就任するや、本城移転が行われ、新市街建設がはじめられ、お迎えした都の皇子様を戴いた城下町たる、菊池都が建設されたという事実。

そうです。

菊池の城下町は明らかに都を意識した巨大城塞都市であり、それ以前の300年の歩みから突然隔絶した全く新しい指導者、運営理念、革新がもたらされたのだ、ということなのです。


13、深川の港小

その隈府の新市街は、今現在私たちの眼前にそのまま残されており、人々はその計画都市で今でも生活しています。

15代武光公が旧態然とした菊池に対し、号令一下都への大改造を命じ、その改造の結果は700年後の今の時代まで残って、菊池の人々の生活を支えている!

すべては15代武光公につながっている!


いえ、これはこういうと、菊池の郷土史家の方々は、当たり前だ、誰でも知っている、というのかもしれませんが、なぜか、そう取りまとめた郷土史は見当たらないのです。

私が総じて感じたのは、菊地では菊池武光公は英雄として市民広場に銅像もあり、知っている人たちの間では認知されている。しかし、街をどう改造したのかしないのか、それを認知している人はほとんどいない、という事実なのです。

さらに、その現地取材、絵の制作過程の中で、武光公の辿った道筋が見えてきました。

いえ、私が新しく掘り起こしたのではなく、すべては郷土史の中に記載されているのです。記載されてはいるのだけれど、誰もそれを解説していないし、伝えてくれる人はいないのです。聞けば、こうだと答えてくれるだけで、積極的な説明、解説はありません。


私が知った武光公の業績の流れはこうなりました。


まず、妾の子として生まれ、豊田の十郎という名で甲佐という飛び地の領地に放置されていた。

親しくしていたのは阿蘇家の異端児江良惟澄という武将。

その惟澄の助けを借りて、菊地が合志一族に攻め込まれて蹂躙されたとき、十郎がわずかな手勢で菊池本城を奪回して見せた。

同じころ、北朝に圧迫された南朝後醍醐帝が、味方する武士を探せと命じて、懐良親王が九州へ下られ、阿蘇家に迎え入れられず、行き場に困った。

その懐良親王を菊池に迎え入れることを決め、その威でもって十郎は菊池の15代棟梁になり負わせ、菊地武光を名乗った。

間もなく、菊池本城は守山に移転され、計画都市隈府の建設、および菊池惣構えの大工事が着手された。

武光公はその資金源として折からブームとなりつつあった倭寇(表では貿易をし、裏では海賊行為を行った)のプロデュースに乗り出し、菊池川流域を制圧、財政を潤した。

同時に周辺の北朝勢に戦いを挑み、連戦連勝の実力を示した。

やがて、大保原の戦いという九州の関ヶ原といわれたいくさを征して九州をほぼ平定した。

太宰府に征西府を進め、そこから九州経営を行い、ついには日本統一のために軍勢を京に向けて進発させた。

ところがこれには失敗、やがて北朝足利幕府からの最後の刺客、今川了俊が圧倒的な兵力で南下、ついにはこれとのいくさの最中、高良山において謎の死を遂げた。

その死の真相はいまだに解明されていない。


となるのです。

どうですか、すごい物語ですよね!

15、うてな台地の凱旋小


有名な武将たち、武田信玄、毛利元就、独眼竜政宗、上杉謙信、藤堂高虎、滝川一益、色々いますが、武田信玄にしても甲斐一国をやっとまとめた程度です。

菊地武光は肥後のみならず、九州全域を平定し、九州武士団を率いて東征、日本統一を試みたのです。

これって、とんでもない活躍ぶりですよ!

こんな痛快ストーリー、どんな武将物語でも読んだことありません!

のみならず、武光公は生涯一切ぶれず、懐良親王に忠誠を尽くし、戦い続けて倒れ、周囲がその死をひた隠しにして、武光の存在そのものが九州武士団の心の支えとなったのです。

こんなすごい、素敵な話がありますか?


ところがこの物語を菊池の人さえ誰も知らない。

よその地域の人はさらに認知なし!

わたしは衝撃を受けました。

これでいいのか⁉と思ってしまったんですね。

思うでしょ?

以下、次回に続きます。



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