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幸福は続かないからこそ尊いことがやっとわかる年代になった

新しい年がやってきた。
コロナで、いろんなことができなくなっていったこの2年だったけれど、外に行けずに内側を向き続けたことで得たものも多かったな、と思う。

家の中を整えて、規則正しく何かを作り、誰かと食べ、少しばかりの仕事をし、他愛ないおしゃべりをして、風呂に入って寝る。
それが、ただただ、続いていく。

少し前の私なら、そんな日々が続いたら
「こんなことではアカンのではないか」
「何かを成さなくてはならんのではないか」
「自分の人生はこのままでいいのか」
なんてことを考えていたと思うけど、この2年で起きたことで、「そのままでいいんだよ」と思えるようになった。
さらには、そのままでいてなんとか生きていけるという、自分の置かれた境遇へのありがたさでもあった。

何も起こらない。

つまりは、それが「幸福である」ことにほかならない、という

ものすごくシンプルなことに、この年になってやっと気づいたんだと思う。
昨日と同じ明日が来て、何も起こらずに終わっていくって、
これ、奇跡のようなことだったんだなあ。


そして、もうひとつそこはかとなく
この「幸福」は、これから先の人生で、遅かれ早かれどこかの時点で突然中断される、ということにも気づくようになった。

一緒に食卓を囲んでいる息子は、いずれ家を出ていくだろう。
(もう何度か出たり入ったりしているから、いなくなることの心の準備はできている)
明日、私のからだのどこかにガンが転移して、治療方針を決めるという難しい判断に迫られるかもしれない。
相方さんに病気がみつかるとか、急に倒れちゃうとか
一人暮らしの高齢の母が徘徊を始めるとか
大切な近しい人が亡くなっていくとか
おそらくはもっともっと些細なことーマンションで水漏れが起こるとか、財布を盗まれるとか、ほんの小さなことでも日常はぐらり、と揺らぐわけで

そういうことは、前触れなくある日突然やってきて、その時間から先の人生をひっくり返していくもので

そういう経験を何度か繰り返してこの年齢になってきたら、「何も起こらないこと」の幸福の尊さを、幾重にも増して感じるようになった。


若い頃は、「幸福になりたい」という人生の目標のようなものは、常にどこかゴールであって、そこで幸福を手にすれば、それはずっと続いていくものだと、心のどこかで思っていたかもしれない。

でも、幸福な時間は必ずどこかで終わる。
それがわかっているからこそ、今ここにある幸福は尊いのだなあ。
そんな当たり前のことに、なぜ無頓着だったんだろう。
若いって、なんか怖いものなしだったのかな。


私は家族との食事や、相方さんとのなんでもない時間や
小さな旅行や日常の散歩の一コマを写真に撮って
日記のようにFacebookに残しているんだけど

フェイスブックやインスタを賑わすその手のものに対して
リア充をアピールしてうざいわ、と思う人もいるらしい。
幸せな自分の「自慢」と映ると聞くと、わからなくもないなと思ったりもする。

でも、そんな日常の写真を残していくのは
誰かに自慢したいとかアピールしたい、なんていう類の気持ちでなくて
それが必ず、どこかで失われていくものだということがわかっているからだ。
今手にしているものの儚さを知っているから、その時間を慈しむように残していく。

そういうことを、考える年齢になってきた、ということなんだなあと思う。


もう増やすことはしなくてよくて
いい塩梅に減らしていけばよい年齢なのだけれど

唐突に失ったり
必要以上に減ってしまうと
やっぱりエネルギーを使って、気持ちはざわつくから

今日、何も起こらなかった
ということは
ほんとのほんとに
かけがえなく幸せだよー、ってまじ思う。

毎晩、どこにいるか誰なのかもわからないけど「神さま」みたいな存在に向かって、今日もありがとうございました、と手を合わせてから寝てる。

とりあえず、今年の年末年始も幸せだった。
今年もどうぞ、よろしくお願いいたします。





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