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「私、ひとりだったらごはんなんて作らないよ」ということ

3年前に息子が独立して家を出て、私は一人暮らしになった。愛犬は、父を亡くして茫然自失としていた母、マサコさんのところに派遣されて(拉致されて)いたので、人生で30年ぶりぐらいのたった一人暮らしなのだった。
最初のうちは戸惑って右往左往したけれど、まあ、自力で仕事してかあちゃん一人で頑張ってきたのだから、ここは楽しく生きてやろうと腹をくくって、とにかくご飯だけはちゃんと作って食べようと決めた。
いやああ、楽しかった。一人分だけの食事を作ることの、なんという楽しさよ。

自分の食べたいものだけを作ればいい。気に入ったら同じものを食べ続けたっていいし、怪しげなレシピを試しても、自己責任だから気が楽だ。そして何より、豆皿や一枚だけのちょっといいお皿なんかをあれこれ並べられるのがうれしかった。息子一人が相手でも、「家族の食事」を作ることと、自分のための食事を作ることは、根底で何か大いに違うことなんだとしみじみ思ったんだった。

一人でも背筋を伸ばして、おいしくきちんと食べると決めたので、料理はきれいに盛り付けた。そして、写真を撮った。今見返しても、本当によく作っていたと思う。好きなものを食べて、好きなお酒をちょっとだけ飲んで、Amazonで映画とか見て、極楽じゃった。

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やがて、そんな料理の写真をSNSに上げると、「すごいな、一人なのにこんなにちゃんと作って」と言われるようになった。ありがとう、ありがとう。でも多くの場合、そこにはタイトルのような一言がつくことが多かった。
「私、一人だったらごはんなんて作らないよ」。

「一人だったら即席ラーメンで終わりだよ」「一人だったら適当に余り物並べるだけで十分」「一人だったら私たぶんひどい食生活になる」「一人だったら」「一人だったら」。

褒められているはずなのに、居心地が悪かった。「私だったらやらない」は、「私は一人になんてならないから」と言われているような気がしたのかもしれない。一人のごはんを作るのは本当に楽しかったけれど、やっぱり、ほかの部分でどこか寂しかったのだと思う。何気ない一言がそんな欠落感を刺激して、ちょろりとたまにざわついた。

しばらくして、いろいろあって息子が戻ることになり、犬も無事返還されて、2人と一匹ぐらしになった。さらにそこにコロナが起きて、このところはテレワークの息子と私の二人分の食事を毎日作り続ける日々なのだった。
豆皿は並ばなくなり、酒のつまみ系が減り、食材の量も増えて、食事の内容は大きく変わった。
そんな中、先週末息子が元夫実家に出向いて不在となった3日間。

1日目、夕食抜き。
2日目、食パンと即席ラーメン。
何も作る気分にならず、空腹をただ満たすだけでいいやと思ってた。

あああ、これか。このことか!

みんなが言ってたことがしみじみわかったよ。
「たまの一人の日にごはんなんて絶対作らない」。
ほんとにそうだよ。作るもんか。作るわけがねー。
変に欠落感を刺激されてざわついていた自分を反省した。
深い意味は、なかったんだ。ホント、勝手にざわついてごめんなさい。


でもね、また本当に一人になったら、私はちゃんと豆皿を並べて、せっせと自分のためのごはんを作ると思う。
「たまに一人だったら」と「本当に一人になったら」は違うからね。

一人を生きるためには、自分のために大事にごはんを作るのは、とても大切なことだと思う。そして、背筋を伸ばしてきちんといただく。
またいつかのために、覚書。

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