無様な過去との連続性が許せないからそれを覚えてる人を切ってみた。

 誰にだって、失敗はあるだろう。
 思い出したらうわあああって叫びたくなるような、過去の自分の無様さ。
 思い出すだけで、それを知っている人間との縁を切りたくなるような。
 私は実際に切った。
 実際に、切った。

 切ったことに後悔はない。
 私の無様さを思い出しても、私は私の無様さを覚えている人をツイッター等ですら見かけなくていいのだから。
 無様な自分を許せない自分は、消えてなくならなかった。
 そうやって、無様な自分を覚えている人から縁を切って、早一年になろうとしている。
 いわゆる人間関係のリセットというやつだ。
 私は中学校、高校と卒業時にそういうことをしてきて、また大学卒業時にそれをやった。
 本当に話したい人だけを選りすぐったLINEの友だち欄にすっきりして、爽快でさえあった。
 多分その中には私を心配してくれている人もいたのだろうけど。
 そんなことはどうでもいい。
 私が、不快かどうかだ。

 私は本当に完璧主義者なんだろうと思うことがある。
 その時点であれば仕方なかった失敗も、今思えばとても無様だから、という理由でなかったことにしたくなる。
 そのプライドは何よりも大切なのだ。
 だから、私を知らない人ばかりに囲まれると安心する。
 一部の例外である失敗を知られてもいいと思う友人ならともかく、他の人には知られたくない。
 リアルだったら、立っていられなくなるから。


 で、縁を切ったことで自分と連続する過去を許せるようになったかと言うと、どうだろう。
 まあ、それを知っている人との繋がりが切れたことで、「あの時は○○だったから仕方ないよね」とか、「知っている人にはもう会わないし」と開き直って安心することができる一面はある。
 ほっとする。
 もう人に会う度に「あれを蒸し返されるのでは」という恐怖に怯えなくていい。
 それを知る人はもういないから。
 少しの安寧が得られる。
 けれど、それは完全じゃなくて。
 また新しい人と関係を築いたら、数年して、縁を切りたくなる。
 私のあれを覚えているからって。
 それ自体は悪いことじゃない。
 切りたいなら切っていい。

 でも、終わりがないよね。
 また嫌になって、切って、新しいところで嫌になって、切って。
 安息の地がない。
 人と生きることにとことん向いてないんだなあと思う。

 あと、この生き方、寂しがりにはおすすめしないからね。
 私は傍に誰がいたかも覚えられない人嫌いだから「私の失態を覚えている人がいないわ~い」ってやれるけど、それは同時にいいことを共有する人もいないということだから。

 縁を切りたくならない数人の例外である友人達を大切にしていくつもり。
 リアルでは縁切りたい衝動があるのに、ネットだと垢消しとか移動とかしないのは何でなんだろう。
 ツイッターなんかは自分についてこれる人だけついてこい、で運用してるから、時を経るごとに心地よくなっていくはずだから、当然か。

生きる糧になります。