一貫性と論理的・感情的は実際どうなのか?

こんにちは!
皆さん如何お過ごしでしょうか?

僕は最近、ドラマを見ながらプラモデルを作ってます。

さて、今回の題材は一貫性と言うけれど、論理的と感情的ではないのか?

と言うことを話していこうと思います。

は? 意味わからないんだけど、そう思った貴方!
それで良いのです。そもそも、一貫性とか論理的とか感情的とか殆どが主観でしかなく、受ける印象により変わってしまうものなのです。
その中で唯一、見てる側でも分かるものが[一貫性]と言うことなのです。

そもそも一貫性とは?

事、ここに来るとネットでも見かける事や社会人になると言われる事が増える、一貫性という言葉があります。
この一貫性は、言葉は知ってるけど、実践してる人っているの? と思われるでしょう。

人によっては、最初から最後まで貫く事でしょ? と答えるかと思います。
一貫して曲げないなど、会話で出てくる人もいるかと思います。

では、一貫性とはどうゆう事なのか、僕の知ってる範囲でお話ししようと思います。
? 引用しないの? と疑問に思ったでしょうが、僕のnoteでは引用は出来るだけ避けて行こうと思います。
理由としては、引用するとそのもの自体に感覚を引っ張られてしまい、意味を履き違えるからです。

では本題。
一貫性とは、終始意思を貫く、と言う事が一般的で行動にも説得力が生まれる事を指します。
次のものを読んでみて、AかBどちらの方が気分的に良いか考えてみてください。

A
ある男性が居ました。
男性は、子供の時から厳しく躾けられた為、自分の考えが正しいと思ってます。
街を歩いていると、男性はポイ捨てをしてる人を見かけました。
ポイ捨てに対して酷く怒りを表した男性は、ポイ捨て犯に向かって言います。
『ポイ捨ては良くない。拾ってゴミ箱に捨てろ!!』
言われた方は、他にもしてる人が居るのに何故言うのか? と聞き返します。
『他の人も確かにやっているだろう。だが、それが良い事なのか判断はつくはずだ。そこに捨てる事は自然を壊すのと同じだ』
もちろん、これでは相手には響きませんのでそのまま去ってしまいます。
その後男性は、そのゴミを拾いゴミ箱に棄てました。

良くありそうな場面ですよね。
この注意された人は、良く言う同調圧力なるものに支配されてるために、1人の人に言われてもなんとも感じない所があります。

次行きます。

B
男性は子供の頃から、厳しく躾けられた為、ルールにはとても厳しいです。
そんな時、目の前でポイ捨てをする人が居ました。
男性はポイ捨て犯に声をかけます。
『ゴミを捨てるな。ゴミ箱にいれろ!』
もちろん、相手は聞く耳を持たずどうして捨てなければならないのか? と聞き返してきます。
『そこに捨てる事は自然を壊すのと同じだ。それは習ってきてるだろ? だから拾って捨てろ』
ですが、結局ポイ捨て犯は面倒なのでさっさと行ってしまいます。
男性は、そのポイ捨て犯に怒りを覚えながら、自分の用事を済ませに向かいました。

はい。
AとB書きましたが、どうでしょうか?
場面は同じですが、少し言葉と行動が違いますよね。
Aは穏やかに最後にゴミを捨てました。
Bは怒りを感じてますが、そのままにして移動しました。

この二つを見比べた時、どちらの方が好感を持てるでしょうか?

一貫性と言う事は、Aの行動になります。
理由は、躾けられたからゴミをポイ捨てするのは良くない。
だから、それは悪い事なのだ、と言う意思が原動力になり行動を起こしてます。
その結果、注意してもダメな場合、男性は自分の価値観をベースにポイ捨ては良くないからこのゴミを捨てなければならない、となり言動と行動が一つになっています。

反対にBは、注意はしたけどゴミをそのまま放置してしまってます。
ポイ捨ては良くないと言いながら、ゴミはそのままにしてしまってるので、結果的にゴミを捨てた、と言うのと同意義になってしまうのです。
そこには、自分が捨ててないから、と考える人も居るかと。
その場合、注意した内容的に、ポイ捨ては良くない、今回は片付けとくから次からするな。と、言うのが一貫して伝わるはずです。

このBを、見方を変えてみますと、ポイ捨てに関しての考えが一貫している様にも見えます。
そうした場合、Aは一貫性がなく、結果的に躾けをされた上で自分の考え抜きに動いたとも取れるのが、この一貫性と言うことになります。

つまり、一貫性とは、終始意思を貫く事ではなく、変わらない事であり、筋が通っていて矛盾しない事、と言うことになります。

論理的と一貫性

では、先程一貫性は矛盾してない事と書きました。
そもそも、人の言動は矛盾をする事が多く、記憶と経験に左右されてしまいます。
その為、必ずと言っていいほど矛盾が生じてしまいます。

言い方は酷いですが、例えばある人が犯罪は良くない、する人は死んでしまええばいい、とずっと言ってたとします。
その人がある時、殺人に手を染めます。
その時、その人は仕方がなかった、そうする事が正しかった、と言いました。
過去の事を知ってる人は、その人に対して死ねばいいと口々に言ったとします。
その犯人は死ぬなんておかしい、したくてしたんじゃないと。

この時点で、この人が言ってることと行動が矛盾してますよね。
これを回避する事が、論理的思考になります。
一口に論理的思考と言っても、簡単にはできませんが、納得はするかと思います。
先程ので、少し変えてみましょう。

ある人は、子供の頃から犯罪者は死ねばいいと言い続けてました。
そんな人が犯罪に手を染めます。
その結果、その人を知る人は死ねばいい、早く死ねと口々に本人に伝えます。
そのんな中、ある人はこう伝えます。
確かに昔は、犯罪者は死ねばいいそう考えていた。
だけど、今は違う。犯罪を犯す人にも何か理由があったのかもしれない。
今でも、無差別などは死んでも良いと考えてはいるが、全員がそうなれば良いとはもう考えてない。
実際、自分がそうだった様に、いつ何が起きるのかわからないから。一概に言えなくなった。

そう言ったとしたらどうでしょうか?
人によっては矛盾してると言うでしょう。
都合がいいとも。
確かに当事者になり、批判される事により言い訳じみた感じはあります。
ですが、この中には一貫してる事があります。
それはつまり、犯罪を犯す事自体はいけない事だ、と言う点です。
少し整理しましょう。

まずこのある人をAとします。
Aは初めの頃は犯罪者を憎み、死ねば良いと言い続けてました。
Aはある時、殺人に手を染めます。
当然、一貫性を保つならばAは自殺をする事こそが考え的に矛盾しません。
ですが、当事者になる事により、Aは考えを変えます。
犯罪は許せないけど、死ねばいいと言うわけではないと。
逃げたいがためにそう言ってるのかもしれません。
つまり、その場限りの出まかせですね。
ですが、Aは当事者になり、犯罪を犯す事に理由がある場合がある事に気がつき、変わる原因を伝えてます。
つまり、どうしてそう考える様になったのかと言うのをしっかりと説明できているのです。

論理的思考というのは、結果があってどうしてそうなるのか? と言う理由づけにより伝えられる思考をいいます。
この場合は、凶悪犯には死ねば良いと言うスタンスを貫いてますが、これは不安故の言動の可能性が出てきます。
当事者になり、やむ終えなかった理由も人によってはあるのではないのか? そう自分で疑問に思ったからこそ、死ねば良いと考えなくなった。
結果、全員ではなく限定的に変わった、と言う事により一貫性が保たれる訳です。

この、何故か? と言うところを説明できる様になるのが論理的思考なので、結果的に矛盾をつぶす事が可能になると言う事です。

一貫性と感情的

次は論理の反対に位置する感情的について話していきます。

一般的に感情的と言うのをどう感じますか?
感情任せに言う、気持ちだけに従うなど、自分主体のイメージが強いかと思います。

ですが、感情的と言う事の本質は、[その場の感覚で物事を話す]と言う側面が強いと思います。
その為、一貫性とはかけ離れてると思われますが、感情的にも一つの一貫性が保てる事があります。

それは、自分にとってメリットになる際に、感情を載せる事により論理を超えた説得力を持つ、事です。

どうゆう事!?
と思った方がいるでしょう。

例えばです。
ある人に貴方は、出来る人だ。
と言われたとします。

でも、その言葉だけでは淡々としており何が出来るのか、何を評価されてるのか説明されて無い為にわかりにくいです。

反対に、明るい笑顔で、明るい声で
貴方は出来る人だ!

と言われたらどうでしょう。
気持ちが乗ってるため、喜んでもらえてる、と伝わるはずです。
この場合、相手の中では助かって嬉しい、と言う意見が隠れてます。
つまり、感情的に言う人にとって一貫性と言うものは、その人にとっての感情が一貫して決まってると言う事を意味するのです。

ただ、これはあくまでうまくいく場合に限ります。
よく、感情的と言えば悪い意味が前面にきて、論理的に話せ、と言われてる人も居るかと思います。
その理由が、[自分にとって都合よく行動を起こす]と言う点からです。

一番わかりやすいのは、過去の行動と現在の行動の矛盾があげられます。
近いうちならば数週間前に怒ってたのに、今現在はその怒ってた本人が同じ事をしてるのに、得意そうにしてる、と言うこともあります。

ネット上には、自信がないやナルシストなど必ず一つが当てはまる事が書かれてますが、それはあくまで[そうなのでしょ]であり、必ず人に存在するものです。
つまり、感情的な側面がある上で、それを上手く表現できていれば、一貫性を保ち、上手く表現できてない場合は感情任せと言われるものに変わります。

感情的の一貫性が無いのは主に、都合が悪い時に限り意見が変わる事を言います。
当事者がしたい事があり、それが過去に毛嫌いしてたものでも特に理由もなくやっても良いと考えが変わります。
ですが、他人がする時には否定的な考えが過ぎる事になり、怒りをぶつけます。
価値観の相違を怒りという形で表現します。

その為、外から見ると本人はしてるのにどうして他人はいけないのか? と言う事が起こり、あの人は感情的に意見を言う、と言われてしまいます。


感情的と論理的に違いはあるの?

感情的と論理的には、根本的な違いはありません。
論理的にも根底には、感情が絡むために絶対に絡まない事は存在しないからです。

その中で、感情的が許されないのは、自分勝手だからです。
同時に、理論が破綻してしまっており、一つの話が出来ないと言うのが決定的な違いです。
ここで、僕が起きた一つの事例をお話ししましょう。

ある時、僕は同窓会で女装をすることになりました。
ですが、兄弟に話すとどうせ女装したいだけでしょ、と怒り狂います。
その後四ヶ月口も聞いてくれませんでした。
僕自身は、その時全く女装が嫌だとか、したく無いとは思わず、そもそも女装という概念がなかったんです。
強いて言えば、現在が男装してると言う認識が強かったんです。
髪ものばしたかったですが、男性だから短くしろと言われ続けて、批判もたくさんされました。
それから四年経った今。
あの時怒ってた兄弟が、今は女性の髪型になり、女性用のコスプレも買い、制服に化粧品まで買い始めて、髪ももともと切れとは言ってない、とまで言い出しました。
ネットでは女性として扱われ、性別を気にしない人としか話さないとまで言うほどです。
その事を質問したら、関係ないのになんで言われなきゃいけないのか? ともともとダメとも言ってなかったのに責任転換するな! と。

はい。
文体ではあくまで女装と書きましたが、個人的には現状男装してる感じがとても強くしてます。

これが感情的に話すと言う事です。
この側面が一番大きく、この事が続く事により感情論と言われてしまい、感情的に話すな! と言う事につながります。

自分は良くて、他人はダメなどその場の感情で言葉を発する事自体が良くないので、ここで一呼吸入れて話せば論理的になります。

この後日談はまた悲惨なもので、僕がレディースを買っただけで女装してる、気持ち悪いと怒り出しました。
もちろん除毛もしたら、怒り出していたのに当の本人は除毛もしてます。

外から見たら、イライラするのはこの部分だけだと思います。

結局何が言いたいの? と思われた方がそろそろ居る事でしょう。

つまり、感情的と論理的の違いは、自分本意で会話をするか、相手と会話をするかのこの一点だけが違います。
そうなると、せっかく話を進めようとしても相手が感情的だと、聞く耳を持たず、終始怒りやストレスを与えられてしまうため、双方感情的になってしまいます。

理由は、感情的なところで書きましたが、感情を載せる事により自分の気持ちをストレートに伝えられるから、気に食わないと言わなくても良くなる為です。
論理的では、その点がなく事実を理由と結果をもとに話すので、ただでさえ根底にある感情を殺して客観的なものを伝えようとしてるのに、納得いかない事を永遠と怒りを乗せられてたら疲れてしまうのです。
その結果、感情的に言い争う事になり、結果論理的に話していても根底には感情があるので根本的には変わらないと言う事につながります。


まとめ

今回一貫性と感情的、論理的というのに触れてみました。
この事は社会ではよくあり、政治でも討論で話が噛み合わないと言うこともあるかと思います。
同時に、女性差別などのも基本感情論の部分が日本では目立ちます。
なぜ、そう感じたのか? と言うのを説明してる人が少なく、批判意見は無視をする、と言う事が多いために嫌われているところがあります。
確かに、間違った言い方というのも沢山あります。
男性が悪いことも沢山あります。
ですが、それが許せない、そうだからそうして良いと感情任せの行動が許されるわけではなく、一貫性を保たない限り説得力も持たないと思いました。

どうか、このnoteを読んでくれた方は、感情をぶつける前に、一度どうして怒ってるのか自分で見つめ直してください。
そうする事により、何が言いたいのか相手に伝わりやすくなります。
同時に、論理的思考も鍛えられますので、どうか他人を傷つける可能性も考えて、話し言葉で敵を作らない様にしてください。

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