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豊臣という名字は残っているのか

 ふと、「豊臣」という名字は残っているのか、という疑問が湧いてきました。
大阪の陣で豊臣家が滅んで、豊臣という苗字は消滅してしまった、と長らく思ってきました。
そこで、調査してみることに。

 そこで、「名字由来net」というアプリを使って調べて見ました。
名字を入力したら、全国順位と約何人いるか教えてくれるアプリです。
「豊臣」と入力して調べて見ると・・・

【全国順位】 41,358位
【全国人数】 およそ60人

とでてきました、あ、あるんだ~!
わずかながら「豊臣」という姓は残っているようです。
さらに詳しく調べてみると、

 秀吉は、全国の大名に豊臣政を与えてしましたが、豊臣家滅亡後にその多くが使用をやめています。
 しかし、備中足守や豊後日田などの分家の旗本が「豊臣姓」を名乗っており、その子孫が現在も豊臣の名字をもっているそうです。

 秀吉とは関係がなくなっているものの、豊臣姓はちゃんと残っていた。
なんか、感激・・・。

 ちなみに秀吉は苗字が「羽柴」で氏が「豊臣」だったそう。
だから、羽柴秀吉と豊臣秀吉を併用して名乗っていた、とのことです。
一般に言われているように、羽柴から豊臣に姓を変えたわけではないそうです。
私もすっかり勘違いしてました、恥ずかしい・・・。

 秀吉はなぜ豊臣という氏を欲したのか。
秀吉は最初「征夷大将軍」になろうとしましたが、足利義昭が存命だったためなれなかったそう。
そこで、「関白」の座を欲しました。
しかし、秀吉はどこの馬の骨ともわからない農民の出なので、関白になどなれるわけがない。
当時、関白の座は「源平藤橘」の子孫でなければなれなかったのです。

 「源平藤橘」とは、「源氏」「平氏」「藤原」「橘」の4氏のことです。
だから、関白の座は藤原氏から派生してできた五摂家(近衛・一条・二条・九条・鷹司)が持ち回りで就いていたのです。

 そこで秀吉はどうしたかというと、無理に近衛前久という人の養子になって近衛家の一員になり、関白の座に就きました。
しかし、秀吉はそれでも飽き足りず、特別な存在になるため新たな氏を作ることを目論みました。
それが「豊臣」という氏です。
これが豊臣という氏の誕生の経緯です。
当時のお公家さんたちからはさぞ不興を買ったでしょうね。


 最後に秀吉の子孫について。
ご存じの通り現存していません。
大阪の陣で秀頼が自害してその息子国松も家康に処刑されてしまいました。
なんか、調べたら「大谷吉継」が秀吉の落とし胤じゃないかと言われているとかいっているサイトありましたけど、眉唾ものでしょう。
あと、島原の乱に担ぎ上げられた「天草四郎時貞」が秀頼の落とし胤とかどこかで聞いたことありますけど、これも信憑性に欠けます。

 そんなわけで、「豊臣」の姓はわずかながら残っているものの、秀吉の子孫は現存していません。
秀吉の子孫が現在までいたらおもしろいのになあ~
家康の子孫も信長も子孫もいるのに、秀吉の子孫がいたら三英傑の子孫が揃うんだけどな。

 淀君が家康の言うことを素直に聞いていて臣下の礼を取っていれば、家康は豊臣家を1万石くらいで1大名として残したのでは、と思っています。
家康は、織田家とか北条家とか1万石で残していますしね。
今川家も氏真の子孫が若年寄として幕府の要職についてますし。
家康は家名を大切にした、というからありえない話ではないと思います。

 秀吉の子孫どこかにいないのかなあ・・・なんて。

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