卒業まであと【37日】

向き合うべき憂鬱感なのか、避けられる憂鬱なのか?

昨日、研究室で発表会のスライドを直していた。すると、横で一学年下の後輩が先生とディスカッションを始めた。

これから就職活動を控える一方で、それまでの間やその間に研究を極力ストップさせないために、誰と協力してどの実験を優先して進めるかという話をしていた。

先生に対して意見するのに物怖じしない、二手三手先を読んで計画をよく考えなさいという言葉にも怯まない姿勢。それに対して、なぜか私が怯む。

後輩は、先生と対等な風にディスカッションしていた。すごいなと思うと同時に、自分はそう出来ないことに引目を感じ一気に居づらくなって、そそくさと帰宅した。

劣等感。

今準備している発表スライドだって、論理構成がガタガタする部分があるし、背景知識を再確認しなくてはいけないところが多い。スライドを見直しながら、修論の穴も目についてくる。書いておけばよかった/ 書こうと思っていたことが抜けていたり、誤字らしき文章があったり(意味は通るが違和感のある文章)。

もう卒業だというのにまだこんな事も分からないのか、最後まで研究の話を正しく伝えられずに終わるのかなどと思って、誰に言われたわけでもないのに、自分で自分の首を締めている。

頭の片隅で考えていた進学を断念したのも、これだった。修士なら出来るべきであろうことが出来ない。でも、今以上には出来ないと思った。この先3年間も、自分の首を締めながら研究を続けていくのは無理だと思った。

まあ、進学を断念した件はいろいろな条件が重なった結果なので、ひとまず置いておく。

進路選択はまだしも、修論審査会において感じる劣等感は、向き合わなくてはいけないのかもしれない。嫌なことは出来るだけ避けて進んできたが、これは避けられない、避けるべきでないかもしれない。

普通に考えれば、出来ないことは改善する努力をするか、代替できる方法を探すのが建設的なはずだが、なかなかそういう方向に頭が回らない不思議。痛いところを突かれると、防衛機制がはたらいて自分を守ってしまう。

人と比べると憂鬱になるので、それは避けて自分の中のベストを尽くすのが良さげなのだが。

ベストの水準を下げて、最低限の努力で済ませようとしている感がある(もはや「ベスト」ではない)。

そして、最低限の努力でどうにかなる程、研究は甘くないのだった。ここで、避けようとする「逃げ癖」から憂鬱感が生まれ、自分の首を締め始める負のループに入る。

やるしかないのか〜。

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