【鑑賞日記】大吉原展を観に行った
大吉原展@東京藝術大学大学美術館
なんか場外乱闘的に話題になってしまっていた本展。開催前の炎上のせいで館内には今回の企画意図や見解に関してのステートメントも掲出されていました。
掲出した行為やその内容自体ついては、自分もいろいろ考えるところもあります。
が、しかし、それよりも本展を鑑賞していちばん強く感じたのは、本企画の本質はもっと違うことだったのではないか。ということでした。
ステートメントに書かれていた主張もまた真意ではあるのでしょうが、もっと別の意味合いを持っていたのではないか。そう思ったのです。
本展は「かつては吉原という場所があった」ということを主観を入れずに、ただ事実を事実として展示したかったのではないでしょうか。その視点の持ちかたは、ある意味、文化人類学や民俗学的な感じというか、記録的というか、そんな感じ。
展示の冒頭では、吉原のまちの風景/情景を描く群像画が多く展示されていました。それらは、まちそのものが主眼/主役である作品群。
ようするに。まずはじめに、この企画は「まちそれ自身の存在」が主眼であるということを観せ、理解して欲しかったのではないでしょうか。
そして展示作品に描かれている対象は、マクロからミクロへ。見世の風景から、さらにはその屋内へと、カメラは移動し、観てほしい対象へとフォーカスして行きます。
ただし、個々の登場人物に寄りつつも、しかしそれはカメラが寄っていっただけ。ある意味、冷徹な視線なのです。
ここでカメラの視点と書きましたが、今回の展示構成はまさにドキュメンタリー映画のような視点の移動や変化を強く感じさせるものでした。だからこそ客観的でなにかを主張しようとするような印象ではない企画なのではないか、と思ったのだとも言えるかもしれません。
会場を進むと、カメラは再び個々の対象から離れ、俯瞰映像に戻っていきます。
カメラが捉えたその場所の様相をでの客観的に観せている。そういう観せかたにしようと意図した展示だったと思うのです。
「吉原」という特殊なまちの存在を客観的に提示した。
あとはそれを観た者がどう受け止め、どう考えるのか、ということは各自が考えて欲しい。すべては鑑賞者に委ねる。
これが、本企画展の当初の、そして本質的な意図だったのではないでしょうか。
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