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南伊豆の調査開始〜南史会を訪ねる

しばらく東京の滞在が続いたのですが、立春と合わせるように伊豆半島に戻って参りました。太陽の暦では、春の始まりであり、1年の始まりとされる日。そんな始まりの季節に寄り添い、地に足つけた伊豆半島の古道プロジェクトの新しい1年が始まります。

しかし、春だといわれても2月初旬。まだまだコートを手放せない寒い時期は続きますが、ピークは過ぎました。日に日に和らぎ始めていくでしょう。河津桜もほころび始め、伊豆半島でも春の兆しも見られるようになりました。

前回の伊豆半島滞在は新年のご挨拶でやって来た頃なので、丁度1ヶ月ぶりです。伊豆半島には昨夜到着したのですが、澄んだ空気に輝く星空、思わず声を出してしまう程の感動を体験しました。東京滞在が続いたからこそ気づく事ができた、関係人口ゆえの恩恵と言えるでしょう。

1月前半は、この半年間の調査・研究をまとめ終え、念願の國學院大学を訪ねました。砂かぶり席で深澤太郎先生から学ばせていただき、貴重な資料まで頂戴しました。

そして、本日は南伊豆町の町史を編纂している南史会へ。

東浦路と呼ばれる熱海から下田を結ぶ古道を踏破したので、次は下田から先を往く南伊豆を横断する古道について調査開始です。南伊豆の歴史を研究されている南史会をお繋ぎいただいた南伊豆町役場の教育委員会にご挨拶を済ませ、編纂委員会の事務所がある南伊豆町の武道館に到着。その時、同じタイミングで軽快な運転の軽トラが隣に駐車しました。立派な鹿のツノをくくりつけた軽トラです。鹿のツノをキッカケにお話したらその方が南史会の会長・渡邉守男さんでした。

文献や地図が積み上がった研究室に通され、早速ご指導をいただきました。

PROFILE 南史会

南伊豆古道を調査する際、南史会の協力があったと伊豆歩倶楽部の会長・笹本祀長さんからお聞きしました。まずは南史会について教えてください。

南史会は教育委員会から町史の編纂を委託されてる団体です。今まで南伊豆町史「寺院編」と「神社・石造物編」の2冊を編纂しました。現在は南伊豆町の通史を編纂しています。

元々歴史が好きなのですが、特に古道には私も興味あったもんですからね。南伊豆町の古道はだいたい歩いています。

おお!!歩かれてるのですね!

南伊豆古道について

これが南伊豆町の地図なんですけどね、この町は半分が海岸なもんですから。海辺の人は魚や貝を獲ったり、海藻を獲ったり。生活していくのに海は大切な資源。ところが、海辺には田んぼがない。だから海の幸を内陸で売り歩き、米を買って帰るのは当然ですが、中には田んぼまで買う人もいました。そんな海と山を繋ぐ道、漁村から漁村を繋ぐ道があちこちにありました。

各漁村集落から山への道があったんですね。

そうです。現在は海岸沿いをこうして(国道136号線を指して)車が通るようになりましたが、海岸は崖が多いもんですから昔は道が作れなかったんですよね。ここから下田に行くにしても歩くしかない。だから多くの道が作られ、時代により拡張、活用されてきたと言われています。

これ南史会の機関紙。差し上げます。それこそ、何度か古道を歩いた時の記事がありますので読んでみてください。

ありがとうございます!その時はどこを歩かれたのですか?

南伊豆の古道は、大きく分けて2方向あります。そこを歩きました。1つは下田、或いは天城へ行く道。一條から大沢を抜けていく横川街道。車のない時代のメインストリートです。もう1つは西の方へ行く道。青野から八木山、岩科へ行く道と蛇石から大峠は最も古い区間。

今は鉄砲撃ち(猟師)も行かなくなってしまいました。1番の原因は土砂崩れで、倒木が道を塞いでいたり。

村山古道や東浦路でもそんな道を歩きました。

ここに400年前に流されてきた落人の話、いづれ聞くと思いますが、仲子姫という京都の姫が流されてきたんですよ。

もうすでに聞いています!姫街道!

そうです。全部ではないですが、私も歩きました。石廊崎から二条に出て、青市から大賀茂を通って、下田へ行くのが姫街道と言われています。仲子姫は配流され二条に14年間住み、刑が解かれ下田港から京へ帰ったと言われる道。今も通れるかな〜。だいぶボサボサになってる。車道以外はちょっと通るのは厳しいかな。

ロマンに満ちた歴史ある古道ですね。

それからね、戦国時代。伊豆半島にはお城がいくつもありましたけど、この南伊豆町にもお城があったんです。石廊崎と加納、青野にお城があってね、お城を中心とした古道もありますよ。石廊崎は行かれたことありますか?

はい!石室神社はもちろん、漁港の方へも行きました。

石廊崎漁港の昔売店があったところ。今は広い駐車場になっていますが、そこから東に聳える標高60m程の城山に、天然の要塞・白水城がありました。現在は公園として遊歩道が整備されています。

このように各地が観光地化されたもんですから、例えば下田から吉佐美へ。吉佐美から弓ヶ浜へ続くタライ岬遊歩道。石廊崎の城山を巡る遊歩道ができて、中木から入間、入間から吉田へ、妻良へと観光の遊歩道ができました。海岸の絶壁の上を通る遊歩道や林道や草原、亜熱帯ジャングルのコース等…それがずっと、端の伊浜まで観光の道として整備されています。

この道は全部繋がっているんですか?

はい。みんな繋がっています。

どこまで繋がってるんですか?

雲見、松崎へ、その先も繋がってますね。

土肥、戸田、大瀬崎へと?

はい。伊豆半島を巡ることができる遊歩道です。

(南史会・小林憲利さんが冊子を持って来て)遊歩道というか、少なくとも江戸時代までは実際に使われていたよね。方角石が据えられていたり、お地蔵さんとかあったりしています。

その道が行者さんが廻っていた拝所と繋がるかもしれないですね!

はい。峠峠でお祈りしたり、妻良には二十六夜にお祈りしたから二十六夜山があったり。

二十六夜山のことは、村山古道の畠堀操八さんからも聞かされています。二十六夜信仰については、まだまだ掘り下げなくてはならない歴史文化がありそうです。

それからね。妻良と子浦、この区間は難所で通れなかったんですよ。

え、通れなかった?!

昔の言葉にね。「妻良の七坂、子浦の八坂、逢いに来たのに帰さりょか」というのがあってね。わずか2キロの道なんだけど、海へ降りて、山を登って、、そんなことするよりも舟で渡った方が早い。それくらい道が険しかった。

この間だけでも3つの山を抜いてるんです。西洋普請でダイナマイトが入ってきて、コンクリートを使う技術が入ってきて。やっと道が開通したのは明治になってからの事です。

この区間の道を繋げるのは苦労しそうですね。

この辺りの上下の道はよくわからないですが、昔の公図を見ると赤線があります。なんとなく道があるところもありますよ。とてもハイキングコースのようなものは作れないだろうけど。

古道と人の営み

古道で遊んでいたりしましたか?

はい。みかん食べたり、蛇とりに行ったり、メジロをつけに行ったり。

メジロをつける?

とりもちって知ってる?それを枝に巻いておくと鳥が止まって捕まえる。現在はメジロの捕獲や飼育は鳥獣保護法で禁止されていますが、昔はそんな遊びをしていました。昔は10羽くらい飼って、いい鳴き声を競わせたり。

鳴き声も4種類くらいあってね。「チョリー」とか「チリー」とか。鳴き声を真似してメジロを呼び込んだりしました。

果物取ったり、山芋堀に行ったり、自然の遊び場。それが古道なんでしょうね。

今の子ども達は、山で遊んだりはしないのですか?

今、伊豆半島は獣害で困ってますよ。例えば、山芋掘りはできなくなってしまった。猪が掘り返してしまう。昔の人は石垣を作って古道を守っていたが、その石垣を猪が壊してしまう。石垣の間にいる蟹やミミズが大好物でね。

鹿も増えたね。木の皮を全部食べてしまう。それで木は枯れてしまい、土の支持力も無くなり、水が走り…人が山に入らなくなったので、古道の手入れがされなくなってしまったのです。

古道の地物

古道で石碑や道祖神等の地物は見かけますか?

ほとんど残っています。ただ、これは言っていいのか、どうか、、、最近、それを車で持ち去って、自分の庭へ飾ってる人もいたり。「あれ、地蔵さんが無くなってる」なんて事も。

持っていかれては困ります。(苦笑)古道を見つける上で大切な道標ですよ。

南史会では町中の地物を全て網羅した南伊豆町史『神社・石造物編』を編纂しています。全て歩いて調査しました。地元のお年寄りに聞くと「昔はよく歩いたもんだよ」なんて言われるが、地物(点)はわかっても、その古道(線)がわからない。

地蔵といえば、子浦のころばし地蔵知っていますか?

いえ、知らないです。

お地蔵さんを海に蹴っからかした(蹴り飛ばした)んです。そんな罰当たりなことをすると海が荒れる。なぜそんな事を願うかというと、子浦には遊女がいたんです。江戸時代、帆船で港が栄えていた頃。

海が荒れると船が出せないため、大風や嵐になると、船乗り達は子浦に避難したんです。子浦は陸の孤島のような場所なので、生活を営むために必要な物が全てあり、長期滞在者が多いことからそこには遊郭もありました。遊女が船乗りさんと恋仲に落ちて、いつまでも滞在してほしいから風が凪そうになると、朝早く起きてお地蔵さんを蹴飛ばす。それで風が吹いてきて、出港が遅れるという…笑

面白い逸話!!

江戸時代からそんな話もあるくらいだから、方角石や石碑もありますし。遊歩道は古道だと思いますよ。それから(地図を持ってきて)、渡邉守男さんが作成された鎌倉から江戸時代の古道マップです。弥生時代の道も記してあります。南伊豆町の色んな遺跡、出土した黒曜石や古墳の点を繋げた古道の地図です。もしかしたら参考になるかもしれないので差し上げます。

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國學院大学の『伊豆修験の考古学的研究』と、今回いただいた南伊豆歩道運営協議会の『南伊豆を歩く』から、伊豆峯次第の南伊豆古道を繋げることが出来そうです。

次の日、運命的な出会いがあり、より鮮明なビジョンを描くことができるようになるのですが、その話はまたの機会に。

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