嵯峨野の月#53 比叡山夜話


遣唐17

比叡山夜話

梅雨入り前の一時的な酷暑は貴賤なく都の人びとをうだらせているが、
ここ比叡山寺の外は生い茂った樹々の間を抜けて冷涼な風が吹き渡り、そっと戸を開けて師僧の庵から出た青年僧の火照った肌を冷ましてくれる。

ああ、なんと気持ちの良い夜よ…都ではやれ新帝即位で騒がしいがそんなことは最澄さまのお耳に入れたくもない。

比叡山こそ、いいや最澄さまのお傍こそが私の拠り所であるよ。

と青年僧、泰範たいはんはやおら衣服を脱いで上半身裸になり、水桶にきれを浸して絞り己が体の汗を拭い始めた。顔から剃髪の頭、首筋から胸元へと巾を滑らせる。曇り空からちらちら覗く月光の下で滑らかに動く彼の白い裸体をさっきから見つめている者がいた。

「そんなに私の行水が珍しいですか?」
と泰範は振り返りもせずに背後の人物に声を掛けた。

「見惚れていたのだよ」
となんのてらいもなく円澄が腕を組みながら言った。

泰範は上半身をひねりゆっくり振り返った。巾を肩に掛け、程よく引き締まった泰範の裸身を見て思わず「…美しい」と呟いた。

「それは、どういったお気持ちで?」
と据えた目つきで自分を見つめる泰範の整いすぎたかんばせをしばし見つめてから円澄は、

「美しいものを美しいと思って何か悪い?」と悪戯っぽく笑った。

「お前と最澄さまの事を陰で色々言っている者もいるが、私は咎めない。僧侶の集まりではよくある『たしなみ』だし、邪淫とは女人とのことだし」

「それは仏罰ではないとおっしゃるのですね…あなたもでしたか円澄さま」

さあね、と円澄は肩をすくめて
「私は空にかかる虹も、麓に広がる湖も、雨露を受けて輝く青々とした葉も同様に美しいと思っている男さ」と答えをはぐらかしてから
「このような問答をしている場合じゃないんだ、穏やかではない事態が起こってね」と急に厳しい顔つきになった。

「何があったんですか?」

「山を降りて奈良に帰ると言い出す僧が出てきた。最澄さま自ら説得して止めていただかないと」

「また、ですか?」

と泰範は簡単に宗旨替えする僧なんて本当の道心なぞ無い、そんな奴は去らせればよいのに。と嫌味を込めた声で言った。

桓武帝が病で崩御なされたのは最澄の付け焼き刃の加持祈祷が効かなかったからだ。

という貴族たちの悪意ある流言が比叡山にまで届いて、山を降りて奈良の寺に帰る弟子が出てきたのは年明けてから。

最澄はじめ円澄や義真も説得に当たって思いとどまる弟子もいるのだが、やはり去る者全てを引き留められる訳ではないのだ。

「せっかく国家公認の宗派になってこれから、という時に次々と弟子に逃げられては宗派として成り立たない。すぐ最澄さまを起こしてくれないか?私は弟子を引き留めているから」

とそそくさと円澄が立ち去ると泰範は衣を着て庵に入り、全裸に白衣を掛けて眠る最澄を起こして急いで身支度をさせて最澄の後について説得の場へ向かった。

本堂の奥には常に油を注いで絶やさずにいる灯火がゆらめき、最澄自ら彫った本尊の薬師如来像と、すでに小脇に荷物を抱えて出て行こうとする3人の若い僧と、
「…どうしても考え直してはくれないのか?」と説得に掛かる円澄と義真を背後から照らしている。

「山を下りて戻ったところで奈良の寺院がお前たちに良くしてくれると思うか?お前らが嫌気を差して出て行った場所じゃないか!」
と義真が向かって右側の僧の袖を引き寄せる。

僧は義真に
「それでもこれから廃れていく比叡山よりはましさ。俺達を食わせてくれる」
と薄く笑って答えた。

何をう!と義真は気色ばんだがそれをとどめた円澄が天候の話でもするかのような気楽な口調で
「それを保証してくれる僧侶がいらっしゃるのかな?例えば、興福寺の徳一和尚とくいつおしょうとか」と円澄が事の核心を衝くと僧は不貞腐れて黙り込んだ。「やっぱりね」と円澄は口元に穏やかな笑みを浮かべて、

「徳一和尚なら喜んで天台宗から弟子の引き抜きを行うだろうさ。
なんたって最澄さまの長年の論敵で、最澄さまを前世からの仇敵みたく思ってらっしゃるからねえ。
でもね、徳一和尚も真面目過ぎて奈良では『けっこう』浮いた存在で、悪く言えば孤立しがちなお方なんだよ。引き抜いた弟子全てを食わせる力があるようには私には思えないがねえ」

左右二人の僧はそこでぐっと唇を引き結んで黙り、真ん中の一人は平伏したまま顔を上げようともしない。

「どうかこの山に入った時の理想を思い出して、残ってもらえないだろうか?」

と最澄が進み出て僧たちに歩み寄ろうとした時である。「理想ですって?」と芯から侮蔑したような笑い声が真ん中の僧から漏れた。
「あんたの理想とやらは今の世では…無意味なんだよ!」と立ち上がり、前のめりに最澄に突進する手に小刀さすがが光る。

迂闊うかつ

と円澄と義真が気づいた時はもう遅かった。

どう、と音を立てて最澄が真後ろに倒れ、温かい液体が顔にかかる。最澄は顔だけ上げて見た光景がうつつだとは思えなかった。
危険を察知して前に出、自分を突き飛ばした泰範の太腿に小刀が突き刺さっていて…刺客の僧の胸が背後から太刀で貫かれている。刺客は口から血を噴いてすでに絶命していた。

「間一髪でしたな」
刺客を一突きで仕留めた和気広世が刺客の骸ごしに最澄に向かって笑顔をひらめかせた。

「広世どの!」
太刀を引っこ抜いてびゅっ!と振り払った血がご本尊に、後に「不滅の法灯」と呼ばれる灯火にも振りかかったので「ちょっと広世さま!」と激痛を一瞬忘れて泰範が広世の行状を咎めた。

「聖域の本堂を血で汚して済まないが、ただちにあなたの治療に取り掛かることで許せ」と広世は逃げ出そうとした僧たちまで使って傷を負った泰範を隣室まで担いで運ばせ、両手両足を押さえさせてさらに口に布を噛ませ、傷の上下をきつく布で縛った。

「抜くぞ」

と広世の合図で僧たちは強く泰範を押さえた。小刀が引き抜かれると激痛で泰範は身をのけ反らせる。傷口から出る血が下に垂れるのを見て「どうやら血の道(動脈)は傷つけていないようだな」と安堵し、すぐに血止めの膏薬と清潔な布と、針と糸を持ってくるよう義真に命じた。

「今から傷口を縫うからもうしばらく痛いぞ」と広世が泰範の傷口を縫合している間、暴れる愛弟子の手を握りしめて最澄は「済まない、済まない…」と泣いて詫び続けた。

「後はこの膏薬と煎じ薬を処方通りに。さすがは比叡山寺ですな…唐渡りの貴重な薬草も揃っている。いずれ高熱が出るだろうから水で濡らした布で体を冷やすこと。それを乗り切れば泰範は、助かる」

と治療を終え、最澄自ら淹れた茶で一服してから広世がそう宣言すると最澄は「何とお礼申し上げればよいか…」と自分と弟子両方の命を救ってくれた広世に深く頭を垂れ、そして

「刺客の顔を見ましたが、あれは玉泉ぎょくせんではなかった。
ずっとを顔伏せていたので義真も円澄も、山を下りようとした二人の弟子もあれを玉泉だと思い込んでいたのです…恐ろしい事だ。
広世さま、一体何が起こっているのです?私を殺して一体何の得が」
と怒涛のように押し寄せる不安を一気にまくしたてた。

「宮中の奥に仕えていると、いいことも悪い事も見たり聞いたりしてしまうものだ」

茶碗を置いた広世は夜明け前の深い闇を見つめるような目で最澄を見つめ、

「とある高貴な御方が憎悪していた先帝の政策そのものをひっくり返そうとなさっている。

蝦夷征伐と新都造営で疲れ切った民を休ませる政策、それはいい。

だが、一旦切り離した奈良の仏教勢力を全て都に呼ぶとか、再び奈良に再遷都するのは現実的に無理だ。
その御方はこう考えなすった。

『簡単じゃないか、新都の仏教天台宗を興したこしゃくな僧を一人消せば解決する』と」

「私の暗殺命令を出したのは…帝だと?」

そうだ。と広世はひとつうなずいてから、

「帝は頭が切れる御方だが、それがあの方の欠点でもある。

自分を優秀だと自負している者は周りの意見を聞かないからな。

そして、思い付いた悪事をたやすく実行する。

最澄、お前はなぜか帝に深く憎悪されている。今から三年はこの山から出るな。これは忠告だ。お前は今絶対に死んではならん男だ」

「山籠りには慣れておりますゆえ何年でも」
と最澄が覚悟した目付きをすると、

「いいぞ、その眼だ。初めて会った時なんと活きた眼をしている僧侶なのだ!と思ったのだよ。念のために武力に長けた者を警護に付けてもかまわぬか?」

「それは有り難いのですが、広世さまが私を警護していると知られてはまずいのでは?」

なに大丈夫、と広世はうふふと笑い、
「警護の者は出家した元武官だ。杖一本で10人は倒せる僧侶二人がお前を守る」

なるほど、それなら見張りの者には僧侶が新しく入山したぐらいにしか見えない。

「こっちもこっちで朝廷を騙しにかかると思ったら何だか楽しくなってきたよ、最澄。やっぱり私の本質は医者ではなく、貴族だ。それも父ゆずりの謀が好きな性分…」

うふ、うふふっ、と肩を揺すって笑う広世の笑顔はお父上の清麻呂さまにそっくりだ。と最澄は思った。

「さあて、今夜の最後の仕上げにお前の血の付いた帽子もうすと円澄を貸していただけますか?」
と、何か策を思いついた時にぺしっ!と両の手のひらを叩く癖も父上そっくりだ、と広世は今更ながらに気づいたのだった。

麓近くの茂みに転がっている骸の顔を見て帽子を目深に被った僧侶が「玉泉!」と絞るような声を上げた。

「この玉泉とやらが逃げようとした僧侶か?最澄」
と従者を連れた広世が詰問すると
「そうです」と僧侶はうなだれて合掌した。

「刺客は夜に紛れてこっそり山を下りて逃げようとした玉泉と出くわし、これを好機と玉泉を絞殺して僧衣を着て玉泉になりすましてたやすく比叡山寺に入ったのだ」
と広世は玉泉の骸を強く蹴った。

「死者になんてことをするのです!」
と僧侶に咎められた広世ははあ?と呆れ切った声を上げた。

「従者がこの骸を見つけてお前の危険を察知して山を駆けて上がり、危うく刺客に刺されそうになったお前を助けてやったのに…」

言いながら広世の声はどんどん怒気を帯びて来る。

「だ、黙れ黙れ!本堂を血で汚しおって、この人殺しの外道っ、とっととこの山から出て行きなさい!」

「言われなくても出てやるよ。命の恩人を無下にするこの頑固者の僧侶と後ろ盾を失った比叡山にさんざん金を出して支援してやったのは誰だと思ってるんだ!?」

「なんと露骨な物言いだ…疾く出て行け」

ふん、と鼻を鳴らして威張って出て行く広世と最澄の物別れの瞬間を見届けた密偵は

「最澄は仕損じましたが、目の前で刺客を斬り殺したことを咎められて和気広世さま最澄に激怒し、物別れ致しました」

その報告を聞いた平城帝は「そうか、ならいい」と鷹揚にうなずいて密偵を下がらせた。

和気氏の支援を失った天台宗などもう放っておいても空中分解するであろう。

「気が変わった…山に籠っている間はお前を生かしておいてやるよ」

と独り言を言って白い碁石をもてあそぶ平城帝は、こうして最澄の帽子を被って変装した円澄と広世が打った芝居にまんまと騙される形となった。

碁というものは面白い。
相手の陣地を囲んでいると思いきやいつの間にか陣中に深く入り込まれていたりする、白と黒との騙し合い。

比叡山の頂あたりでやっと帽子を脱いだ円澄は、麓の琵琶湖を見下ろしながら、

さんざん金を出して支援してやった。
ってお言葉、広世さまそれ本音でっしゃろ?と含み笑いしながら夜明けを迎えた。

叡山に、白々とした朝が来る。

後記
最澄暗殺未遂事件のお話。どんどん不穏な展開になる日ノ本編。




































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