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嵯峨野の月#142 橋を架ける

最終章 檀林6

橋を架ける

いにしえより人の暮らしに恵みを与えてくださる自然そのもの御神体として崇めて来たこの国に、

ことことになる。

つまり発した言葉が現象として起こるという言霊信仰ことだましんこうが生まれ、それは神道として発展し天皇家が祀りごとを行ういしずえとなりました。

しかし、言葉は神聖なものである。と慎重に取り扱っていても所詮は人間。

己が邪心や欲から言葉を呪うための道具として扱い豪族同士の争いや皇族同士の軋轢で権力者たちは邪魔とみなした者を呪い合い…

この国は呪詛に満ち溢れてしまいました。

血に塗れた支配者たちが衆生の救いを説く仏教を求めたのは必然だったのかもしれません。

でも、仏の教えを扱う僧侶もまた人間でした。

仏教伝来から二百年経ち、官吏化した僧侶たちは本来の教えを忘れ貴族たちの脱税に手を貸すなどすっかり腐敗してしまいました。

我が舅、桓武帝は政と奈良仏教を切り離す為に二度の遷都までなさりこの地を都に定めたのまではいいのですが、当時新しい教えを掲げていた最澄和尚おひとりに入れ込み過ぎてしまいましてね。

他の僧侶たちに朝廷が嫌われてしまう困り事が起こりましたの。

蝦夷えみしとの戦と二度の遷都で国費は破綻寸前。

加えて兄上皇との確執の中で即位なさった我が夫、嵯峨帝は空海阿闍梨が唐から持ち帰った密教の呪力に賭けるしか無かったのです。

阿闍梨の祈祷のお陰でいくつもの難題が解決でき、三十年以上も穏やかな世が続いております…けれど最澄和尚も空海阿闍梨も居なくなりふと、

真言宗は加持祈祷を行う行者や阿闍梨を慎重に育てなければならない厳しさのためやがて弟子が減少して埋もれてしまい、

天台宗も戒壇という権力を得てやがて貴族たちに取り入り、かつての奈良の僧たちみたいに腐敗してしまわないか。

と心配するこの頃でして。

「だから唐での最新の教えである禅を学びたくて使者を寄越して貴方に来ていただいたのです。義空どの…」

とそこで皇太后、橘嘉智子は俯いていた顔を上げてとても御年六十二とは思えぬ若く美しい顔に清らかな微笑みを浮かべた。

唐の五台山から来た禅僧、義空は初対面だと言うのに日の本の信仰の来し方と百年先の行く末をを見据えた嘉智子の語りから溢れる聡明さに圧倒された。

承和十四年(847年)初め。

故国での仏教弾圧に絶望していた義空は嘉智子の使者である僧、恵萼えがくに連れられて海を渡り、平安京洛西の嵯峨野にある十二坊からなる広大な寺院である檀林寺でこの国の国母に禅の教えを授ける日々がこうして始まった。

「そもそも禅とは釈迦もなさっていた修行のひとつで精神を統一して己が真実を追究するという意味なのですよ。二百年前に達磨大師だるまたいしが悟りの境地の体験として坐禅修行を追求なさった事が起こりです」

「まあ、ただ座って何も考えずに頭を休めていればいいというものではありませんのねえ」

「それは瞑想で禅とは少し違いますねえ…禅の目的は自分自身の存在の真実を探すこと。 そのために禅僧は日々の生活の中で修行し続けるのです」

「わたくしにも出来ますでしょうか?」

「もちろんでございます。国母さま」

と最初は意気揚々だったが数年かけてこの国の信仰の、

病を得ては阿闍梨に祈祷を頼む貴族。

頑なに穢れを避ける神官。

そして古いだけの巨木や石に向かって拝む庶民。

とこの国の祈りの有りようを見ていく内に

呪術に頼りすぎる今の日ノ本に禅の教えを浸透させるのはまだ早過ぎた…

と徐々に自信を無くして行き、嘉智子亡き後の斉衡年間(854年-857年)、唐での仏教再興のために帰国する事となる。

この当時の嘉智子が行ったもう一つの事業に橘氏子弟のための大学、学館院(右京二条西大宮大路)の設立があり、康保元年(964年)には大学別曹として公認されたが橘氏の没落と共に衰退していった。

人々の苦しみの問題は縋る教えが間違っているのではなく教えを扱う人間の心に問題があるから。

という考えのもと、

先ず己を見る。

という禅の教えを国に広げたかった。

橘氏子弟が今後生き残るためには高い水準の教育を受けさせたかった。

そう強く思った嘉智子の国母としての二つの事業は長くは続かず兄の氏公うじきみも憂慮していたが、

「でも、一度でもいいからやってみる。というのが現世に生まれた人としての使命じゃありませんこと?」

と嘉智子は強い意志を込めた眼で言い切ったのだった。


「そーれ、高いたかーい!」

と春の澄んだ空の下、草原で寝そべる父親の腹の上で幼子の体が鞠のように三、四回弾んで着地するときゃきゃきゃきゃっ!と笑ってから「ちちうえー!」
と抱きついてくることし三才の息子が志留辺は可愛くて可愛くて仕方がない。

結婚して二年目の春、妻の河鹿は無事に男児を産み、志留辺は子に伊珂留いかると名付けた。

妻のお産に向けて滋養を付けてもらおうと狩りに出掛けて仕留めた獲物が斑鳩いかるが(イカル)で、その鳥の命を頂いて生まれた子。という意味で名付けた。

母親ゆずりの縮れた髪と大きな黒い瞳を持って生まれた息子は大した病も無く育ち、

生まれてちょうど三年目にあたる春分のこの日は拝火教の元旦にあたるというので、

志留辺の母シリンが張り切って作った馳走を詰めた櫃を持って郊外の野原に出掛け、家族総出で屋外で休むというピクニーク(ピクニック)という拝火教徒独特の誕生祝いの宴を開いていた。

この日の宴に参加したのは志留辺の両親である騒速とシリン夫妻。

そして河鹿の両親で修験者の頭の座を息子に譲って今は隠居の身である素軽とスセリ夫妻。

奈良で仏師として活躍しているシリンの兄、牟良人むらとと志留辺一家の計八名が

草原に広めの絨毯を敷き、食べたり飲んだりお喋りしたりと思いのままに過ごし走り回って遊ぶ伊珂留を目を細めて見守って居た。

「そういえば河鹿どのを一目見た時、お頭にそっくりだ。ってまず思ったんだよなあ」

と妻手作りの醍醐だいご(チーズの原型)をつまみに酒を飲む騒速が呟くと河鹿の母スセリは

「やっぱりそう思うのね。みんなタツミお父様の面影を畏れて年頃になっても娘に言い寄る若者が居なかったの」

と修験者の男たちが河鹿の容貌と兄たちを凌ぐ武力に恐れをなし、敬意を払っても決して恋愛の対象にしないので困り、

都に行けばいい婿が見つかるかもしれない。と思い夫素軽がかつて仕えた阿保親王邸に奉公に行かせた。

という経緯を語り、

「それにしても騒速、奉公先で貴方の息子と縁づくとはね」

と娘夫婦の仲睦まじい様子をほっとした顔で眺めた。

実はこのスセリ、騒速にとって初恋の人なのだが十五で思いを打ち明けた時に「ごめんなさい、既に素軽さまの許嫁《いいなずけ》なの」と即振られた過去がある。

だが、三十九年経った今ではいい思い出。と思っている処へ義兄の牟良人がにじり寄って来て、とスセリとシリンを交互に見てから

(成程ね、お前が妹に惚れた訳が解ったよ)
とにやにやしながら耳打ちし、すぐに離れて醍醐に齧り付いた。

「伊珂留は母親似なうえ男子だからますますお頭に似て来たな」
「うむ、あれでは生き写しだ」

と父方母方両方の祖父が孫の容姿を評すると河鹿は周りの男全てに恐れられた過去を思い出してむっとし、

「いくらタツミおじい様が伝説の修験者だからって、似てる似てるって言わないで下さい!」

と我が子を奪い取り「心優しいところは志留辺どのそっくりですからね」と膝上で言い聞かせた。

その様子を見ながら父と舅の間に割って入った志留辺は、

空海阿闍梨に修験の行を教え、嵯峨帝の危機を救った伝説の修験者タツミの、

歴代の頭の中で最も統率力があり、巫覡の力で行先を見通す。縄一本で己を括り笑いながら崖から飛ぶ。

という偉業も奇行も全て父の口から伝え聞いただけ。

自分にとっては大舅に当たるその人の事をもっと知りたくなって
「河鹿に似ているなら余程美男子だったのでしょうねえ」とそれとなく聞いてみると、

「覚えてないのか?お前、幼い頃高野山で会って天狗さんが来た!と騒いでたぞ」

と意外なことを言われたが、この時は酒も入っていたし息子の誕生祝いだったのその話はこれきりになった。

七日後の夜、志留辺は幼い頃の夢を見た。

自分はまだ五才で父の後について故郷の天野の里から高野山の中腹まで食糧を届けに行き、父が僧侶たちに振る舞う食事の支度をしている時に庵からすこし離れて草笛で遊んでいた。すると…

長い髪を垂らし白衣の修行者ふうの背の高い男が彼を見下ろしていた。名前を聞かれ、答えると男は

「ソハヤの息子シルベよ、いにしえの神の導きのもと健やかに育てよ…」

と言い残し去って行った。

あの人だ!

志留辺は跳ね起きた。早朝なので妻子は床に並んでまだ眠っている。雀のさえずりが聞こえ、明るくなってきた室内で志留辺は息子の寝顔を目を凝らして見た。

成程、こうして見ると
凛々しい眉に真っ直ぐで高い鼻梁を持ったいい顔立ちをしたあの方にやはりよく似ている。

と思った時、

タツミどのが言ったいにしえの神の導きって何だ?

我の人生これからどうなるのが解らない。今は愛する妻子と暮らしているだけで満足なのに。

とざわざわする心を落ち着かせるかのように熟睡している息子を背後から抱きすくめる志留辺であった。


この年の秋、実に十年近い大陸での旅を終えた僧侶が那の津に着いて外交施設で遣唐使の宿泊所である鴻臚館こうろかんに入った。

彼の名は円仁。

当時仏教弾圧激しかった唐で不法滞在を決め込んで留学生活を続け、五台山留学を経て密教の秘法まで授かり、天台宗に足りなかった金剛界曼荼羅を持ち帰るという成果を果たして帰国した天台僧で事実上最後の遣唐使である。

船から降りて故国の土を踏んだ彼はまずは潮の香り含む秋風を胸いっぱい吸い込み、

「ああ、やはり日ノ本の風はいい」

と実に久しぶりに心緩めて笑った。

承和十四年九月十九日(847年10月24日)

円仁は三度目の出航で航海に成功した日である承和五年六月十三日(838年7月8日)から書き始めた九年六ヶ月に及んだ留学日記、「行記」全四巻の記述をこの日で終えている。

これは後に「入唐求法巡礼行記」と呼ばれ日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価され、欧米でも知られるようになる。

比叡山に帰った彼を皆感涙に咽びながら迎えた。

実は出航直前に兄弟子で二台目天台座主、円澄が世を去り天台座主は十年以上空位だったのである。

十年近い迫害の旅を終えて阿闍梨号と両部曼荼羅を持ち帰った円仁さまこそ天台宗を受け継ぐに相応しい。

と長年の彼の帰りを待っていた天台僧たちは無事に帰って来られたら三代目天台座主を円仁さまに、と決めていたのである。

五十半ばを過ぎて脚光を浴びた円仁はこれはまた忙しくなりそうだ…と入京前に近江のとある集落を訪ね、心残りを果たした。

それは五台山で暗殺され果てた霊仙三蔵法師こと息長日来根おきながのひきねの遺品と銅剣を持ち帰り、遺族に返すこと。

有難う御座います…と五十を過ぎた日来根の姪が遺品の背負い櫃を受け取り、

「伯父は兄妹を食べさせるために出家なさり、さらに唐から送った文で我が家を支援するよう朝廷に働きかけてくださったのです。感謝してもし尽くせません」

そう言って涙を流す遺族たちに見送られて円仁が息長氏の里から去る時、

ああ、これでやっと眠れる…

と言う声を拾って慌てて振り向くとそこには、

百八の珠の数珠を首から掛けた白装束の若者、息長日来根の御霊《みたま》が秋草の中、全ての因縁から解き放たれた笑顔で円仁に向かって手を振っていた。

こちらこそ長年御守りくださり有難う御座いました。

と円仁が合掌すると、日来根の姿は群れ飛ぶ蜻蛉《とんぼ》の中で薄くなり、やがて消えて行った。


帰国報告のために入京した円仁を仁明帝、大層喜んで迎え、謁見の場で

「最澄の意志を継いでよくそ耐えて戻って来てくれた。円仁、お前を伝燈大法師位でんとうだいほっし内供奉十禅師ないぐぶじゅうぜんじ任命する。次の天台座主はお前だからな」
と確約した。

これは勅旨ちょくしによる初の座主任命ざすにんめいであった。

ほら、やっぱり忙しくなる…
と円仁は覚悟したように太い眉の下で両目を瞑り、「謹んでお受けいたします」と合掌した。

こうして

嘉智子はこの国の信仰の行く末を見据え、志留辺はやがて来る人生の転機を予感し、円仁は最澄空海亡き後の日ノ本独自の仏教を受け継ぎ、

それぞれの立場とやり方で未来に向けて橋を掛けていく人々の姿があり、後の世の人々はそれを歴史と呼んだのかもしれない。

後記
皇太后嘉智子、人生最後の事業を果たす。
志留辺と伊珂留親子のいく先は?
ちなみに円仁の在唐日記「行記」は世界三大旅行記ひとつに数えられる事となる。











































































































































































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