嵯峨野の月#138 繭
最終章 檀林2
繭
後に
承和の変
と呼ばれる嵯峨上皇葬儀の直後から始まったこの政変はまず朝廷が六衛府に命じて京のあちこちに武官が配置され、厳戒態勢となった平安京で人々は、
嫌だねえ、上皇さまがお隠れになってすぐ争いが起こるだなんて。
またタタリが起きなきゃいいんだけど…
と陰で囁きあい、買い物の為の外出しか許されない状況下、息の詰まるような思いで暮らした。
「私が太后さまに密書を送っただと!?一体誰がそのような事を」
と外警護の役人から詮議の内容を聞かされた阿保親王は、
私が密書を送り続けた相手はこの世で嵯峨上皇さまただお一人。
上皇さまも受け取ったのち内容を覚えたらすぐに燃やして跡形も無くして下さっていた二人だけの秘密の遣り取りの筈なのに。
それがどうして太后さまにお渡ししたという話が捏造されたのだ?
と頭を抱える親王を前に困惑した面持ちの役人は
「ま、まあとにかく、それを証拠に帝は勅を出されたのですし親王さまは謀反を直前で止めた功労者として遇せられておりますゆえ累が及ぶことは無いかと…」
と言ってそそくさと去り、部屋に残された阿保は、
あれは三十二年前
父平城帝が起こした政変の折、私は父を為政者としても家族としても見限って叔父である嵯峨帝の側に付いて父の失脚に加担した。
それ以降も旧都平城京と都を行き来し、父の近況を密書で送り続け、それは父の崩御まで続いた。
その過去が今こうした形で返って来るなんて!
と脇息にもたれかかりながら脱力し、
叔父の親政をお助けするつもりで私がやって来たことは、やはり親を裏切った罪だったのか?
と後悔の渦に陥りそうになる阿保を引き戻したのは、
「まずは親王さまの無事が保証されるという事が先ほどの話で判りました。けれど油断は禁物。
どのような事態になろうとも御身をお守り申し上げます」
と彼の父の代から仕えてくれている武官、志留辺が主を励ますようにからりとした声の宣言だった。
政変の一報を知るや飛び起きて武装し、刀を太腿に置いて父の居室の前に座り込む志留辺の姿に、
さすが戦士の子は戦士なのだな。
と行平と業平はじめ阿保の家族たちは彼をこの上なく頼もしく思った。
承和九年七月二十三日(842年9月1日)の早朝、
仁明帝より伴健岑、橘逸勢両者が謀反人であるとの詔勅が出され、先ずは春宮坊が兵によって包囲された。
次に大納言、藤原愛発。中納言、藤原吉野。参議、文室秋津が出仕を待ち構えていた武官たちに捕縛された。
皇太子の舅である愛発、皇太子の最側近吉野、春宮大夫の秋津が縄打たれ引き立てられ、春宮さまの近臣全てが失脚するのを目の当たりにした他の貴族たちは、
やはり、帝の本当の目的は。
と確信を抱いていても立場を失うのが怖い彼らは押し黙ったまま気の進まぬ務めを遂行するためそれぞれの持ち場へ向かうしかなかった…
近侍の健岑と逸脱どのを助けるために出した皇太子恒貞親王は直ちに辞表を天皇に奉り、皇太子には罪はないものとして一旦は慰留されたのだが、たった数日でそれは覆された。
「た、大変です!」
と母の震える手で起こされた恒貞は廊下に出て左近衛少将、藤原良相(良房の弟)率いる近衛兵たちに東宮が包囲されているのを見るなり、
何もかもが周到な。
これは何年も前から練られていた計画だったのだな。
と全てを察し、謀反の咎で我が身の危機なのにその胸中に去来したものは、
ああ、これで、
後見の無い皇子として生まれ、幼い頃から藤原に怯えて生きていた日々から解放される…という安堵であった。
思えば立太子してから幾度も出して来た皇太子辞退願いをその都度祖父嵯峨上皇に阻まれ、
「何故なのです!?後見の貴族の無い私が即位しても長く続かない事は分かり切っているのにどうしておじい様は」
と泣いて懇願した時、祖父は恐いくらい神妙なお顔をなさり、
「いいかい恒貞。今から言う事は一度しか言わないし他の誰にも言ってはいけないよ。これは過去二回の政変で学んだことなんだがね—」
と本当の胸の内を明かして下さった時から私はこの日を待っていたのかもしれない。
「とにかく今は大人しくしていましょう、騒いだり抗弁したりしては逆効果です」
と弟帝の仕打ちに憤る母、正子内親王と妻子たちを宥める恒貞の姿に良相は、
御身の難事になんと神妙な態度であることよ。これで道康親王様とお立場が逆なら天皇として相応しいお方なのに。
と不遜にも思ってしまった。
その一方で
今最も守られている立場である筈の仁明帝の第一皇子、道康親王は我が身を抱きすくめながらぶるぶると震え、
「とうとう父上は皇家を藤家に売り、次代の傀儡として私を伯父上に引き渡すつもりなのですね…」
と不穏なことを口走るではないか。
仁明帝女御で母の藤原順子(良房の妹)や女房たちがいくら宥めても道康の不安の発作がおさまらない。
「仕方ないわ、彼の者に来てもらいましょう」と順子は息子を落ち着かせるためにある貴人を呼び寄せた。
程なくして道康が最も慕っている人物、小野篁が唐最新の書体の手本と文箱を持参して入室し、
「御心を落ち着かせるには書写が一番。さあ親王さま、一緒に草書の手習いを致しましょう」
と墨を含ませた筆を持たせると道康はうむ、と素直に頷き、篁自身が書いた手本を見ながら筆を進めると不思議と不安が収まっていく。
「お前の字は相変わらず美しいな。…ねえ篁、今日は側に居てくれるか?」
「仰せのままに」
その答えで道康はこの日の不安を乗り切る事が出来た。
結局
恒貞親王は事件とは無関係としながらも責任を取らせるために廃太子となり、
藤原愛発は京外追放、藤原吉野は大宰員外帥、文室秋津は出雲員外守にそれぞれ左遷、伴健岑は隠岐(その後出雲国へ左遷)、橘逸勢は伊豆に流罪。
の沙汰が下り政変は急速な終わりを迎えた。
それまでの五日間、謀反の一報を聞いた嘉智子は自室に籠り、心の中に広がる絶望と疑念の嵐に苛まれ、苦しみに耐えていた。
孫の貞保親王はじめ側近の貴族たち、従兄の逸勢からいきなり官職を取り上げ彼らと家族の人生を破壊している張本人が、まさか愛情を持って育てて来た我が子だなんて!
正良さま、あなたは一体何をお考えなの!?
太后さまのあまりの憔悴ぶりに周りの宮女たちは主の周りから簪や櫛や胸紐などをそれとなく遠ざけ、主が早まったことをしないよう細心の注意を払った。
そして嵯峨離宮に十いくつものお迎えの御車が来て、
「僭越ながら、廃太子恒貞親王蟄居のためにこの離宮を使うことと相成り、太后さまには冷然院に住み替えのため内裏にお戻りいただきたく申し上げます…」
と一方的な住み替えの通知を伝える兄で大納言、氏公に向かって嘉智子は、
「ずいぶん急な追い出しにかかるのですね。ここに仕えている女人たちの処遇はどうなるの?」
「は、太后さまの最低限のお世話役以外、ご実家に帰って頂く事になります」
急な暇を言い渡された離宮の女人たちの中には最も長く嵯峨上皇の妻として仕えた貴命も含まれていた。
「我が子忠良親王さまご自身が迎えに来て下さっています。断る訳にはいきません…太后さま、ここでお別れでございます」
離宮仕えの者たち慌ただしく出ていく中、別れの挨拶に来た貴命に嘉智子は自分の前髪に挿していたこの時代最上級の素材である黄楊櫛を形見として手渡した。
それは嘉智子が世間知らずの侍女として宮中に入った娘時代から髪の手入れの仕方や身だしなみまで教えてくれた先輩である彼女に、
侍女の頃から私を励ましてくれてありがとう。
という最大限の感謝を込めたものだった。
その意をすぐ解した貴命は
「あなた様にお仕えした日々はこの上ない宝物でした…」
と涙で潤んだ声で告げると息子に急かされるまま車に乗り、そのまま離宮から去った。
これが、嘉智子と長く苦楽を共にした貴命との今生の別れとなった。
息子忠良親王の元で静かに余生を送った貴命は六年後の仁寿元年(851年)に世を去った。時に従四位下であった。
海の向こうの滅びた国、百済の亡命王子の子孫として生まれた彼女は見目麗しい上に機織りや裁縫に習熟していたため嵯峨天皇に抜擢されて女御となった、寵愛だけではなく身につけた技術で出世した稀有な女人だった。
明鏡の他十人程度の宮女を連れて内裏に連れ戻され、離宮引き渡しの条件、
戻ったら真っ先に帝に面会させていただくこと。
を約束させて冷然院の一室にひとり入った嘉智子は、静かに怒り続けたまま息子を待った。やがて「帝、お越しになりました」と若い命婦が告げたのち仁明帝入室。
落ち窪んだ目に肉が削げた顔つき。伽羅の香を焚き染めた衣の袖から除く骨ばった腕。
天皇としての責務と政変の心労でまさに
命を削った。
とも言える息子の窶れぶりに嘉智子は一瞬だけ心を痛めたが、
今は国母としてこの子の母としてなさねばならぬ事がある。
屹と顔を上げた嘉智子は僅かに首を縮める仁明帝に向かって、
「なぜ、このような強引なことをしたのです?」
と政変の些細を全て聞かされた上で蓄積した怒りを宿した目で息子を詰問し始めた。
ああ、子供の頃からこうだった。
母上にこの目で睨まれると心を全て見透かされているようでたまらず本当の事を話してしまうのだ。
「全ては、親から子への安定した皇位継承のため。
今までの皇位継承は兄弟の順に。
と天智天武の頃より行われてきました。
けれど、新天皇が即位する度に貴族たちは兄側、弟側に別れて側近たちが争い戦乱が起き、数多の血が流れてきた…
お分かりですか?母上。所詮、兄弟なんて生存競争の最初の敵なのです。
ならば、政変で流れる血を無くすために
祖父桓武帝も亡き父嵯峨帝も兄弟間の争いで苦しめたこの悪習を完全に断ち切るのが私の政での一番の使命。と思い極め実行致しました」
自責の念に駆られるどころか悪びれもせず動機を告白する仁明帝の態度に嘉智子はすっと全身の皮膚が凍るような恐怖を覚えた。
本当にこの子は優しい子になるよう慎重にお育て申し上げた正良さまなの?
「だから、恒貞さまはじめ側近たちを無実の罪で陥れたというのですか?北家以外の貴族全ての力を削ぐために」
「そうです」
「だからといって逸勢どのから姓を取り上げて貶めたのはあまりにも酷な仕打ち。これで橘家は二度と外戚として浮かび上がれません。
正良さま、あなたはお家再興の為に宮中に入りあなたを生み、七人の子をなしてお父上にお仕えした母の努力を全て台無しにしたのですよ。
解っているのですか…?」
そこまで聞いて仁明帝はすん!と鼻を鳴らし、
「所詮、母上も后。狭い視野しか持たない女人に私の深謀遠慮など解らない」
とまで口にして嗤った直後、左の頬に熱い痛みが走ると同時にぱあん!と部屋中に音が響いた。
所詮は女。
と言われて激昂した嘉智子があろうことにか帝に平手打ちを食わせたのだ。
「今のは恒貞さまのぶん。次は正子さまのぶん」
と今度は左手で息子の右頬を打つ。
「愛発どの、吉野どの、秋津どののぶん、阿保親王さまのぶん」
無表情の嘉智子の本気の打擲は繰り返され、最後に、
「これは逸勢どののぶん!!御自ら陥れた者たちの痛みを思い知りなさい!!」
と一際激しい打擲を息子の両頬に連続で浴びせ、耐えていた仁明帝は鼻から血を流し、腫れた両頬を押さえながらも、
「やれ嬉しや、やっと母上が親として私を見て下さった…」
と嬉し泣きするのを前に嘉智子は、
わたくしはこの子を嵯峨帝から授かった次代の天皇になる皇子とばかり思ってきて、実の母として一度もこの子に向き合って来なかった。
という事に初めて気付いた。
これは夫の寵愛に感謝しながらも現世を生きるのが辛くて辛くて仏道に逃げ続け、我が子の心の寂しさに気付かなかったわたくしに下った罰なのだ。
「私はねえ、正子姉上を産んだら皇女とはがっかりだ。次は皇子を産め。
と母上に強要し、私が生まれたら生まれたでどうしてもっと強健に生まれて生まれて来なかったのだ?となじる橘の伯父たちが憎くて堪らなかった…
政務能力も大した事なく外戚として藤原に拮抗する力も無い、ずっと母上を苦しめてきた橘の家をこの手で潰してやりましたよはは…は、ははっ!はっ!」
と鼻血を流しながら泣き笑いする我が子を憐れむ暇も無く駆けつけた内舎人や侍女たちに掴まれ帝から引き離され、
一時的なご乱心という事で静養のため部屋に籠もった嘉智子は、
我が身の不徳で心歪んで育ってしまった帝が無辜の人々を作ってしまった事実に耐えきれず脇息に伏して泣き、
橘家の呪いとは、このことだったのだ…!
ああ、このまま儚くなってしまいたい…とだけ思い詰めた時、一個の白い繭が胸元から転がり落ちた。
それは嘉智子が皇后だった頃、養蚕の手ほどきをしてくれた桓武帝妃、酒人内親王さまがくれたお守り。
立后して間もないわたくしを励まして下さった酒人さまは十三年前、安らかに逝かれた。
その時のお言葉、
「私は辛いことがあると決まってこの玉に自分の心を込めて繭にくるまれて守ってもらっている自分を思い描いた。
だってそうでもしなければ皇女の人生を生きてこられなかったから。
この先何があろうとお蚕さまが皇后さまをお守り致しますわ、大丈夫」
と仰る前に酒人さまと交わした約束の言葉、
「…ねえ皇后さま、不幸になりたくなかったら決して自分の心を殺さないで」
とはっきりと思い出した嘉智子は、
そうだわ、わたくしはまだここで死ぬ訳にはいかない。国母としてやるべきことをやり遂げなければ。
兄の氏公と共に進めている橘氏の子弟を教育するための大学(学館院)を完成させなければいけないし、義空さまを唐から招聘して最新の仏教である禅の教えを学ばなければ!
「明鏡、明鏡!墨と硯を持ってきて!」
先程までの絶望を希望に一転させて晴れやかな声で嘉智子はお付きの宮女を呼んだ。
昔、心の繭から飛び出した稀有な佳人が、人生最後の大事業に取り掛かろうとしていた。
承和の変、後編終わり。
ラストエピソード
「風は東へ」に入ります。
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