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嵯峨野の月#109 時鳥

第5章 凌雲7

時鳥

昔、とある貴人の家に長年の友人が別れの挨拶に来た。

それは弘仁六年(815年)春の、庭の桃の花も散り桜の蕾が膨らみ始める頃であった。

この年三十一歳の式部大輔、藤原三守は客を迎える身支度を整えながら、

「共に学び詩文を交わし合い、時には納得いくまで議論をたたかわせた大学寮の先輩と別れるのは辛いものだ」

と寂しそうな顔をするので妻の橘安子は、

「でも、初めての地方任官で東国行きだなんて栄転ではないですか。優秀なお方なのですから勤めを果たされ二、三年後には宮中で再会出来ますわよ」

と夫を励まし、こころもち腰の帯をきつめに締めた。

臍下丹田に圧をかけられうっ、と唸って思わず背筋を伸ばす夫に「気付けが効いたようですわね」と安子が笑う。
「効いた、効いたから!もう少し緩めてくれないか」と三守が振り返った時である。

廊下に面した中庭に、貴人の男がこちらに背を向けて立っていたのが御簾ごしに見えた。

きっと旅立つ友人の護衛が待っている間に庭でも見ているのだろう。

護衛、と三守が思ったのは彼が成年男子より頭一つぶん背が高く立派な体格をしていたからである。

彼は顔を巡らせて最初庭を見、次に木の枝ぶりを見、…いきなりくつを脱いで幹にしがみついて庭木に登り出したのだ。
それは安子が毎年夏に成る実を楽しみにしている楊梅(山桃)の木である。

安子は止めてください!と言わんばかりに夫の袖を強く引いたが三守はしばし様子を見る事にした。

幹が二股に別れた部分に男はまたがり両手を振り回して樹上で威嚇している相手は羽根を広げてかあかあ、と攻撃的に鳴く大きなからすであった。

退け、退け!と叫ぶ人間相手に烏も負けじと上空で旋回して様子を見、相手が手を下ろした隙に急降下したところを片手でむんずと捕らえられた。

「ばかめ」
男は捕まえた烏の両脚を握ったまま五、六回大きく振り回して遥か上空へと投げ飛ばしてしまった。

烏が目を回してよろよろと飛び去るのを見て安心した彼がはー…と息を付いて背後の枝に寄りかかったその時、彼の重みで枝がめりめりと折れて枝ごと六尺(約180センチ)下の地面に背中から落ちた。

ここでやっと三守は庭に降りる事にした。

「いっ、て~…」と顔を上げた相手がまだ幼い顔つきである事に三守は結構驚いたが、受け身を取らずに彼が帽子の中に入れて抱いている雀の巣とぴいぴいと鳴いている雛を見て「成る程、お前が守りたいのはそれであったか」と笑顔で得心した。

「親鳥が守ろうとしているにも関わらず烏が襲ったのです。おれ…いや我は弱いものいじめを見過ごす事が出来ないたちで」

「その心意気気に入った。私はこの家の主藤原三守。若者、名は?」

そう言われて痛む背中を起こして頭を垂れていた若者は

いきなり人の家の庭木に上る。
鳥を捕まえてなぶる。
露頭をさらす。

という三つの失礼を笑って許してくれるおおらかな貴人に大きな体を縮めて顔を上げ、

小野篁おののたかむらと申します」

と巣を抱き締めながら恥ずかしげに答えた。

客人、小野岑守おののみねもりは先程息子が起こした騒ぎの顛末を聞かされて恥ずかしさと怒りを抑え込んだ強張った表情。
その隣で袍に黒い羽根を付けたまま平然と座る篁。

「まさか、名高い文人である岑守どのにこのようなご子息がおられたとはな」

は、と岑守は顔から脂汗を流して恐縮し、

「此度はこの愚息がお庭の木を傷つけ大変な失礼を…元服をすませたもう十三の大人だと言うのに中身は気の向くままに動くのを止められない童なのです!篁、お前からも謝るのだ!」
と自分より一回り体の大きい息子の後頭部を強く押さえて頭を下げさせた。

申し訳ありません…と父の掌の下で謝罪の声を上げる篁を不憫に思った三守はまあまあ、と岑守を宥めてから
「篁どのには菓子を用意してあるから大人の長話を待っていてくれ」
と篁を別室にやり、そこでやっと小野岑守陸奥守任官のお祝いと同時に遠い任地へ行く友と酒を汲み交わし、詩文を詠んで別れを惜しむに至った。

都からの出立を明日に控えているので小野親子は長居をせず日が暮れる前に三守邸を辞去した。

帰り際、

「ねえ三守どの、雀の子ははいったん枝から離れたら親が子育てをしなくなるって言うけど大丈夫かなああの雛たち」

と既に元の木に戻してある雀の子を心配していたので元服時から出世ばかり目指して競争心むき出しの貴族の子弟たちの中で珍しく心根の優しい子だ。

と思い、「烏をあれだけおどかせば外敵は当分寄って来ないし、その内親鳥も帰って来るよ」と言って送り出した。

騎乗したまま後ろを振り返り「ごきげんよう三守どの!」と言ってぶんぶん手を振る篁の姿は、まるで世俗の垢に染まらずに山中で真っ直ぐ伸びた産毛の付いた若竹のような…

親子が去ってからもその場でいたく感じ入った三守は数年後、帰京した篁を娘婿に迎えるのである。


きょっきょっ、きょきょきょきょきょ

時鳥ほととぎすの鳴き声が内裏の庭から聞こえると桓武帝皇女、大宅内親王おおやけないしんのうは…

ああ、また夏が来るのね。

と思いながら廊下を渡り、宮中の奥まった部屋で静養している異母姉の朝原内親王を見舞い、

「お姉さま、きょうは時鳥の初音ですよ」

と季節や時候の変化、今日あったことなどを六年前から寝たきりになっている朝原に話し掛けて日が沈むまで過ごす事が日課になっていた。

「そういえばずいぶん暑くなって来たこと」

閉じていた目を急に開けて朝原が瞳だけを動かして妹に答えた時、あ、今朝は起きていらしたのだ。と大宅は驚いた。

この頃の朝原は一日のほとんどを眠って過ごし、たまに目を覚ますと見舞いに来た母の酒人内親王や大宅に自分の見た不思議な夢の話をするのだった。

ある時は
「夢の中では私は青い海を泳ぐ大きな亀で珊瑚の林の中で色鮮やかな魚たちの共に悠々と泳いでいるの。後に捕まって私を斎王に、と卜定ぼくじょうする亀甲にされるとも知らずに」

また、ある時は
「夢の中で私は大きな烏になって筑紫から飛び立ち、逞しい大柄の男と銀色の髪をした女という変わった夫婦を東へと導いてるの。その先に何があるのかも知らずに」

そして
「夢の中で蓮の形をした山々の中の犬となって親犬や主と共に野を駆けていたの。主のことは大好きだったんだけどある日、旅の武人に贈られて故郷を離れて都に来たの。最初は寂しかったんだけど今では新しい主も大好きになって一緒に野を駆けているの」
とまるで魂が体を離れて人間以外の生き物になっていくつもの生を生きる仏教思想の

輪廻転生。

を思わせるような話をいくつもし、看病してくれる母と妹を宮中での現実から幽玄の世界に誘った。

「まるでお姉さまは彼岸と此岸を渡る時鳥みたいね」

と大宅が言うと朝原は、

「そうよ、私の人生は人に見える世界と見えない世界を行き来する時鳥のようなもの」

と冗談なのか本気なのか解らない事を言ってわざと片目を瞑って見せた。その時ばかりはほほ…と酒人も大宅も口を覆って笑うのだが二十年前、当時皇太子であった異母兄の安殿親王(平城上皇)の元に揃って嫁した時からずっと一緒に過ごしてきた大宅には解るのだ。

もう姉の魂は半分以上体から遊離していてその命数も残り少ないことを。

十四年間を伊勢斎王として務め、退下なさってからもその高い霊力で父帝と国のために夜は賢所に通って祈り続けて来た姉は六年前の夜明け、御鏡の前で倒れていた。

祈りに持てる力の全てを注ぎ、一時は命も危ぶまれたが酒人と大宅の看病により上半身が動く位には回復した。

だが、数日前より姉の息が止まるようになり薬師に危篤を告げられてから

弟の嵯峨帝が高僧を集めて病気平癒の読経をさせてはいるが…そんなことをしても無駄だ。

肉体が衰弱し人が逝こうとするのは自然のことわりであり、帝の都合で姉の魂を強引に現世に縛り付けようとするのは酷なことではないのか?

と大宅は思うようになってきた。

「いいの、神野は神野なりに私を思ってくれているし僧侶たちも彼らのやり方で私を思ってくれている。それでいいの」

この日ばかりは朝原の言葉と意識が明瞭だったので酒人と大宅は数日間の読経が仏に届いたか!と一瞬奇跡を信じた。

「違います、お別れを言うため」

まるで二人の心を読んだかのように朝原が白くなった顔で微笑むとまずは大宅の顔を両手で包み、

「巫女である私の人生に付き合わせて本当にごめんなさい」

異母兄平城帝に婚儀の夜、「妹と交わる気は無いし指一本触れない」と約束させ生娘のまま二十年間宮中で過ごさせた妹に心から詫びた。

いいえ、お姉さま。と大宅は首を振り、

「確かに夫である上皇さまを深く愛した事も無い人生でしたけれど、その代わり他の女御に激しく嫉妬する事も無く穏やかな心でいられる幸せを知りました」

と姉の手を握り返した。

ありがとう…と朝原は涙目でうなずき次に「お母様、抱き起こして下さいませ」と初めて母に甘えた。

いつもなら侍女を読んで抱き起こさせるところを酒人は娘の枕元に座ってぎこちない手付きながらも朝原の体を背後から抱きすくめた。

娘の体は思っていた以上に軽かった。その軽さが悲しかった。
「ねえお母様」
「なあに?」

「お母様にとっての私は皇女で斎王で上皇妃かもしれない、だけど私にとってお母様は最初からお母様のままなのですよ」

そう言われて酒人は心の一番深い処を衝かれた気がした。この子が斎王に選ばれて四歳の時に引き離されて別々の場所で生き、斎王退下で再会した時にはもう十八の大人の女性だった。

私には授からなかった清庭《さにわ》の力を持ち、自分には理解し難い事をいきなり言い出す、何を考えているのか解らない娘。

娘ではなく巫女、と思って距離を取らないと朝原とまともに付き合えなかった。

元斎王の自分は朝原に嫉妬していたのだ。
歪んだ目で我が子を見ていたのは自分であり、朝原はずっと母の愛を求めていたのだ。

そんな事を我が子の死の間際に気づくだなんて!

「確かに私は愚かな母でした。ちゃんとあなたに向き合っていれば良かった…」

いいのです、弱々しく首を振り朝原は

「ありがとう、お母様」

と深く目を閉じて四歳の時以来ちゃんと抱き締めてくれた母の手を握り、母はさらに強く娘を抱いた。
母娘はしばらくそうしていたがやがて娘の手がだらり、と床に付いた。

酒人の肩にもたれて甘えるような微笑みを浮かべて朝原は息絶えていた。

すぐに誰かを呼ばなければとは思う大宅だが娘を抱き締めたまま全身震わせて慟哭する酒人を前に動けずにいた。

朝原さま。

これで…これで全ての肩書きが取れて私たちはやっと普通の親子に戻れたのね。

今のあなたは私のたった一人の娘。

神仏よ、刻を止めて私たちををしばしこのままでいさせてくださいませ…

やがて泣き声に気付いて誰かが駆けつけるまで。

酒人は朝原の体を抱いて生まれて初めて己が感情を解放させ泣きたいだけ泣いた。

弘仁八年四月二十五日(817年5月14日)

朝原内親王薨去。享年三十八歳。

桓武帝皇女で元伊勢斎王で平城上皇妃。という人生でら三つの尊き役目を果たした稀有な女人だった。

こうして現世での役目を終えた時鳥が枝から離れて今、輝く初夏の空に飛び立つ。

後記

小野篁初登場回。この時代の人だったんですね。

井上内親王、酒人内親王、朝原内親王と斎王を務めた母子三代続いた天武系の血が途絶えた事になる。































































































































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