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嵯峨野の月#101 渇仰

第4章 秘密18

渇仰

筆の穂先から滴る墨が手元の覚え書きの紙にぽたり、と落ち

僧最澄

の上に黒い染みが広がるのも構わず空海は泰範、と書きその上に素早く三、と書きつけてから泰範の目を見て「心得た」とだけ告げた。
そして再び棒に水を付け次の者の灌頂に取り掛かる。

この日の参詣者百四十五人全ての灌頂の儀式が終わるまで師と並んで待っている時を過ごす気まずさが空海の弟子、杲燐ごうりん実恵じちえの唱える深い音声おんじょうの真言にかき消されていくのを泰範は、

ああ、なんと心地良い響きだ…と思って合掌しながら耳を傾けていた。

在家の参詣者が帰る頃には夕方近くになり、空海と弟子たちが堂内の片づけを行っている時、予想していたひと悶着が起こった。

「頼むから、頼むから一緒に戻ってくれ…」とわき目もふらず泰範に縋りつく最澄と表情の無い顔で師から顔を背ける泰範。
「もう辺りも暗くなりますゆえ」と必死になって泰範から師を引きはがそうとする義真と円澄。

最澄さまのあのような執着しゅうじゃくに満ちた有様、わしは見てはいけないものを見てしまったようだ。


と空海は思い、弟子に片付けを任せて泰範の背後に回り、
「わしの灌頂を受けたからには泰範は我が弟子。受け容れぬわけにはいきません」と彼の両肩に手を置いて新しい弟子入り志願者を擁護した。

「ここはひとつ拙僧に任せてくれませぬか?密教の修行はあなたがたの想像以上に厳しい。
泰範どのにお覚悟があるかどうかひと月ふた月試させていただく。あなたの変わりと思ってこの子に真剣に教えを授けますから」

ひと月ふた月で泰範が厳しい修行に耐えかねて戻って来るだろう。
その間泰範が密教を深く学んで戻って来るなら一石二鳥ではないか。と最澄は完全に自分に都合の良い解釈をした。

「そのようなお話でしたら喜んで弟子を預けます」
と空海の手を取って先程までの哀切に満ちた顔を余裕の笑みに変えて帰り支度をし、振り向きざま、

「お前も天台宗の将来を担う身だってことを忘れないように」
と言い置いてから最澄は弟子二人と高雄山寺を後にした。

もう、弟子との縁は全て切れて無くなってしまった事実から目を背けるように。

泰範を自室に入れた空海は僧衣と袈裟を衣紋掛けに掛けて白衣姿になって寛ぐとはあーっ…とため息をついて、

「今日はえろう疲れた…あんたも休みなはれ」
と二人の間に火鉢を置いてそのままごろん、と横向きになった。

「油が勿体無いから灯り消すで」

ふっ…と空海が灯火を吹き消し、室内は闇になった。
早朝から気を張っていたせいか今頃になって泰範の全身にも疲労が重くのしかかり、部屋に用意されていた寝具用の単衣を被って背後の壁にもたれかかる。

「泰範よ」
「はい」
「さっきあんたはんが堂内で見た、という景色の話なんやけど」
「はい、確かに見ました。両曼荼羅の小さな仏たちが光を放ってあなた様を後押ししているのを…まるで夜空の星々の中に逆さまに放り込まれたような不思議な感覚でした」

それがなあ、と空海は照れ笑いしているような声を上げて、

「最初の師の戒明和尚も、唐で秘法を授けて下さった恵果阿闍梨も見えた、と仰ったわしを取り巻く『何か』なんやけど…

真に神仏に必要とされた時しかわしには見えへんのや。
そんなわしが何でいまここにおるんやろうな」

泰範は顔だけりきっかり真横を向いて空海の横顔のほうを見た。

この御方は確固たる自覚が無いまま今までいくつもの偉業を成し遂げてこられた、と云うのか!?

なんという人なんだ…。

「わしな、ほんまは神秘体験をうそぶくのは嫌いなんや。

洞窟での荒行の末に明星が飛び込んで来たのも唐で上皇帝に憑りつかれたのも全ては夢か幻だったんやないか。

って思うこともある。娑婆におると虚しくなるから、ほんまは独りで居たかったから山中で修行を続けてきただけや…だけど修行を深めれば深める程、今上帝はじめ貴人や奈良の偉い坊さんたちがわしを頼って来る…

もう振りでもしっかりせなあかんとこまで来てしもうたんや」

そこで言葉を切ると空海ははは…と乾いた笑いを立てて手の甲を自分の両目に押し当てた。もう泣く気力も無い、という位疲れた声だった。

このお方も最澄和尚と同じなのだ、と泰範は思った。
人生に絶望して自ら山に入り修行の末に得た答えを教えとして掲げて、国から過大な期待を両肩に掛けられ、ふとした時に潰れそうになる位、本当は苦しんでおられるのだ。

「空海阿闍梨はどうして私の事情を聞き出そうとしないんですか?」

「話したくなかったら話さなくてええし、話したい時に話せばええ。それだけのことや」

何も詮索しようとしない空海の優しさに触れた泰範の頬を自然と涙が伝った。
そんな…阿闍梨の方からそないにあけすけに本音ぶちまけられたら話さない訳にはいかんやないかい。

部屋が暖まるにつれて身も心もほぐれた泰範は膝を抱えて泣きじゃくり、

「まさか和尚が正式な遺言書を作るとは思いもしませんでした。これが朝廷に提出されて認められでもしたら私は逃げられなくなってしまう。そうです、私は師の過剰な情けから…逃げたんです」

むせびながら少しずつ、泰範は自分の生い立ちを話し始めた。

近江高崎の母の実家で過ごした貧しくても幸せだった日々、使用人に裏切られて母を殺され、妓楼に売られて色子として己が心を殺して過ごした八年間。

和気広世に請け出されて救われた、と思ったが僧衣の密偵にさせられて比叡山に入り込んだ経緯、そして、最澄と情を交わしていた事まで真実全てを吐き出した。

その間、空海はまるで木像になったかのように黙って聞いていた。

「謀反の罪人の子である私は還俗しても名を名乗れず、何処にも居場所なんて…」

「あるやないかい」

泰範はそこでやっと、膝から顔を上げた。

「もう何度言わせんねん、灌頂を受けた時からあんたはわしの弟子や。明日のお勤めは早いからもう寝よ」

「は、はい…はい!」

と答えた自分の声は大層うわずっていた。

と泰範は記憶している。
師、最澄と兄弟子たちを裏切った心苦しさがたちまち明日から新しき教えに触れる、という期待に代わり、横になるとたちまち翌朝まで深く眠れた事を。

こうして
冷たいすきま風が容赦なく室内に入り込む冬の夜、一人の密教僧が誕生した。

翌朝、釈迦が身に纏っていたとされる糞掃衣ふんぞうえ(墓場の死体からはぎ取ったぼろ着)を模した柿渋で染めた僧衣を渡された泰範はそれを纏って他の弟子たちと共に朝勤行に参加した。

「最初は真言を覚えるまで傍で聞いておくといい。目を瞑って十まで息を数えて、数え切ったらまた十数えて己の内に深く潜るのだ」

と指導役の僧、杲燐に言われるがままに泰範は手渡された百八の珠からなるやけに長い数珠を二重にして両手に掛けて空海、智泉、実恵、杲燐らの唱える真言の中、目を閉じて息を数えるのに必死だった。

勤行の後の朝餉では師弟関係なく膝を突き合わせ、黙々と熱い粥を啜る。

「え、お弟子って…これだけなんですか?」

帰国してからの弟子が三人しかおらず、その内二人は佐伯一族出身の空海の親戚である。という「今注目されている新しき宗派」の実情を改めて泰範に指摘され、「実はそうなんや」と空海は情けない顔をした。

「ここにいる実恵は大安寺、杲燐は東大寺からの引き抜きや…なんか、密教が激しく厳しい。と誤解されて伝わってしまってるせいか弟子がなかなか集まらなくてな」

他の宗派よりは懇切丁寧に教えているつもりなのに。と首をひねる空海を前に実恵はいやいや、と手をひらひらさせ、

「そもそも私と杲燐はんは師に騙されて都に連れてこられて阿闍梨に引き合わされたんやで」

と言うや否や、
「新しい弟子が来たのに今言うべき事ではないやろ!」と年上の杲燐に激しく胸を小突かれた。

いった~…と胸骨をさする実恵を囲んで弾けたように笑う僧たちを見て泰範は、

ああ、謹厳実直な比叡山寺と比べてここはなんて明るく居心地がいいところなんだ…このような胸の温もりは子供の時以来か。

しかし、弟子がたった三人で組織としても成り立っていないだなんて宗派立ち上げ以前の問題ではないか。とは思ったが。

「ま、僧として仕上がってるええ弟子来ましたな」

そう言って空海は会話を締めくくった。それからの空海は付きっきりで泰範に金剛頂経や梵語の講義をし、既に大日経の解釈が頭に入っている上に枯れた土が水を吸うように教えを覚える泰範を…

逸材だ。
とさえ思った。

最澄が彼を後継者に指名したのは(情人であった事を差し引いて)本当に優秀だからだ。と解ったのである。

わしは天台宗の後継者の引き抜き。という徳一和尚よりもえげつない仕打ちを最澄さまに対してしてしまったのではないのか?

という疚しい思いがよぎった時、
「最澄和尚からこんなに文が」と甥の智泉が比叡山から矢継ぎ早に送られてくる文の束と、数ヶ月前に貸した密教の典籍を盆に乗せて文机の上に置いてくれた。

「ご苦労さん」
と言われて部屋を出ていこうとする智泉がふと振り向いた時、最澄からの文を読む叔父の顔は…かつてない位険しいものだった。

とにかく帰ってきて欲しい。と愛弟子への思いを切々と訴える内容はまさに恋文、と例えるしかない。

空海宛には経典の御礼と、さらに密の教えを深めるべく貸借を要求する内容。
空海の顔をしかめさせたのは
共に手を取り合って密教を支えていこうではないか。という文面だった。

共に手を取り合って、やと?

まだ在家向けの濯上を受けただけで実行の経験もない、秘法も授けていない経典を多く読み込んでいるだけの男に空海は密教に於いて同格、だなんてそれだけは云われたく無かった。

最澄和尚。あんたはんはどうやら大きな勘違いをしているようやな…
胃の腑からせり上がる怒りをは、あーっ、と深呼吸して収めて空海は智泉に、

「これより泰範には本格的に修行を付けて阿闍梨に仕上げるつもりで厳しくするように」

と命じた。

実恵と杲燐はあと一年で阿闍梨号を授けるところまで修行が進んでいるし、若く優秀な泰範までが弟子入りしてくれた今が智泉は叔父に弟子入りして今が一番楽しい。と心躍った。

「お任せ下さい!」と我が胸を叩いて答える甥に空海は、

「比叡山からの文のことはしばらく泰範には伏せておくこと。あの子には修行に集中させて過去のことは忘れさせたいんや」

と叡山での内紛で心傷付いて逃げてきた泰範を思いやっての配慮だろう、とこの若い阿闍梨は得心し、

「心得ました」

と合掌して講堂から退出した。空海は蓮の花に小さな仏たちが納まる胎蔵界曼陀羅を見上げ、

これは空海と嵯峨帝の腹案。
近い将来私立の大学を設立して身分問わず役に立つ人材を育成する事業を実現するためには、

現世のいちばん苦しい場所で育ち、空海自身が有能さを認める泰範こそ新しい大学の講師に相応しい。

と思っていた。

我が法名は遍照金剛。なれどこの世の暗がりに育った者は既に人生を諦め、光があることすら認めようとしないであろう…

泰範は救いに飢えている。故に本気で信じられる教えに必死にかじりついている。

渇仰する泰範こそ泥中の蓮。

将来、低い身分から出家する僧や一族を食べさせる為に学ぶ学生たちの光となるであろう。


空海は書庫に行って密教関連の経典の中からあまり真髄に触れない当たり障りの無いものを三巻手に取り、ちょうど書庫の整理をしていた杲燐に渡してから、

「これを最澄和尚のところへ」と頼んだ。空海と最澄の経典の貸し借りはいつもの事なので杲燐は「は」と一礼してから添え書きの文と共に丁寧に櫃に詰める様子を空海は、

最澄和尚。

あなたの変わりと思ってこの子に真剣に教えを授けますから。とあの時、咄嗟に口を突いて出た言葉でうまいことあなたを言いくるめてしまいましたが、

誠に申し訳ありません。もうあの子をあなたの処へ返すわけにはいきませんよ。

といつも以上ににこやかな顔で見守った。

ちょうどその頃、泰範は成る程、仏教の経典とは天竺の言葉の音韻をそのままに漢語で書き記したものなのだな。と解釈できる位梵語の読み書きに夢中になっていた。

ああ…仏の教えとはこのように楽しきものだったのか!

自分はこの寺で本当の僧侶として必要とされているし、やり甲斐のある修行の日々。これが本当に自分の望む生き方だったのだ。

私は師、空海に頭頂に水を付けられた時に本当に出家を果たしたのだ。

と忙しく充実した毎日の中で泰範はそう思うようになった。

「おーい、根詰めると疲れるから休もか?」
と鍋で茶を煮立てる兄弟子たちに誘われ、
「それでは有り難く」
と振り向いた泰範は今が人生で一番幸せだ、と思うのであった。

泰範という名の泥中の蓮の蕾が、いま大きく開こうとしている。

後記
密教の世界に飛び込み新しい道を見つけた泰範。














































































































































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