電波戦隊スイハンジャー#97
第6章・豊葦原瑞穂国、ヒーローだって慰安旅行
フレグランス1
俺が物心ついてからの父親の記憶は、あまりない。
だがすごく小さい頃、自宅の縁側でうたた寝をする男の寝顔が妙に美しかったのは覚えている。
3月のある日、まだ冷たい春風の気まぐれで桜の花びらがたくさん顔に降りかかっているのに男は微動だにしなかった。
近づくのさえも恐い程の静謐が男を覆っていた。
子供心に触れてはいけない恐怖を覚えて、俺は母親を呼びに行った。
それが、俺の父である野上祥次郎の死。
俺の父親についての最初の記憶。
末息子に死に顔しか覚えられてないなんて、哀れな人だな。と30過ぎた今では思う。
母はいつも、幽かに花の香りがする人だった。
小柄な、10代の少女みたいな儚げな人。いつも自宅のピアノでサティのジムノペディやドビュッシーの亜麻色の髪の乙女などの穏やかな曲を弾いていた。
体を動かすのが好きでよく暴れまわっていた俺を笑って後ろから抱き留めてくれた柔らかい存在、それが母、緋沙子《ひさこ》だった。
父が死ぬまではよく笑っていた人だったそうだ。祥次郎の死で母はピアノが弾けなくなった。
それだけ父を愛していたのだ。
鍵盤の上に涙をこぼす母を、祖父鉄太郎は繰り返し、優しく諭した。
夫が死んだのだから、悲しいのは当たり前だ。祥次郎は儂《わし》にとっても息子だった。だけど緋沙子さん。遺された聡介のためにもあなたは倒れてはいけない、倒れてはいけないんだよ…
それは、理屈だ。じいちゃん。
じいちゃんは哲学をやっていたからな。神羅万象を理屈で片付けようとする学問、それが哲学だからだ。
だけどじいちゃん。理屈には限界があるんだよ。いくら理屈が通っても、哀しみ憎しみ苦しみの「感情」は何十年も消えないんだよ…
年寄りなら分かるだろ?
ある日、俺は母親に連れられて行った先で半裸にされて身体測定を受けたり医者らしき人物から聴診器を当てられたりした。周りには同年代の子がやっぱり半裸で集まっていた。いわゆる3歳児検診というやつだ。
「聡ちゃんが健康体でよかった」と検診の帰り、母は珍しく笑顔を浮かべて片手にケーキの箱をぶら下げ、もう片手で俺の手をしっかり繋いでいた。
家まであと少し、という距離だった。かなり遠くからふぉおん!と獣の咆哮みたいな凶暴なエンジン音がした。
赤いスポーツカーの暴走運転だった。ハンドル操作を誤ったのか、車は歩道にいた俺たち親子に突進した。
母親が俺をかばって覆いかぶさってくれた。それからなにがどうしたのか…
ぎゅぎここここ…!と金属をチェーンソーで裁断するような音が左右で鳴り、指先に熱を感じた。
気が付いたら俺は、母親の前に立って利き手の人差し指を立てていた。
スポーツカーはちょうど中心から真っ二つに裁断され、俺たち親子の1メートルほど手前で車道の両脇の民家の壁に突っ込んでいた。
運転手の若い男も、助手席の若い女も切断面の下で気絶しているようだった。
ケーキの箱がふざけたスポーツカーの轍の中でぺしゃんこになっていたのが悲しかった。
お母さん、大丈夫?ほら、ぼくお母さんを守ったよ。うんてん手の人もケガしてないよ。
…お母さん、なんでぼくをこわそうに見るの?
あの時の母の眼を、俺は一生忘れないだろう。
すぐに俺と母親の体は物音に気づいた鉄太郎じいちゃんに担がれた。じいちゃんは凄い速さで現場から走り去って、俺達は自宅の玄関先に下ろされた。
75の老人なのになんて人間離れした力なのだろう。と母はぼんやり思ったかもしれない。
いいか?緋沙子さん、聡介。いまあった事は忘れるんだ。誰に聞かれても何も言っちゃいけない…!
じいちゃんにしては珍しく厳しい口調だった。
この日を境に、俺が触った玩具はすぐ壊れ、公園の鉄棒はぶら下がったらねじ曲がるようになった。俺は、「普通の子」じゃなくなった。
祖父譲りの怪力が、事故を境に発現したのだ。
母緋沙子はその時、野上の一族に流れる「血」の秘密に気づいたのかもしれない。俺を抱く母親の手が次第に強張っていくのを感じた。
そして玄関先の楓の葉が散る頃、母は俺を置いて家を出て行った。革のスーツケース。かかとの低いパンプスに、細いふくらはぎ。大人の女性なのに、なんと小さな足なんだろう、と思った。
最後に優しく抱擁してくれた母のうなじからは、やはりほんのりとコロンの香りがした。ディオリッシモという香水なのだ、と今年の春まで付き合っていた彼女から教えて貰った。
実はそいつは久留米の眼科医とも寝ていて、開業して財産もある眼科医と結婚して俺を棄てた酷い女だった。
あのな、女どもよ。
男にも「心」ってのがあるんだぜ…。
だけど女って、いつも自分が大事なんだよな。結ばれた相手も、生んだ子供も、自分に都合が悪かったら勝手に失望して心では切り捨てているんだろ?
ちくしょう…俺は、母さんに愛された父さんが、心底羨ましかった。
何だか額が冷たいな…
8月18日の夜10時を回った頃である。
白い小さな手が聡介の額に冷たい濡れタオルを当てている。彼女の腋窩からほんのりとサンダルウッドの香りがした。
「か、母さん!?」
夢に出ていた母の顔が急に年を取って自分を覗き込んでいる。聡介は慌てて飛び起きた。弾みで聡介は母の手を振り払う形になった。
払われた手を抑えた緋沙子は、ご、ごめんなさい、と呟いた。
あ、またやってしまった…
会う度いつもこうだ。と母と息子は同時に後悔した。
4日前のじいちゃんの十回忌法要の後もこうだ。食事会でも会話がぎこちなく、周りの親戚たちが却って気を遣う重い空気。
母は夕方の新幹線で東京に帰って行った。会う度に、溝の深さを思い知らされる。もう「あの言葉」を言ってしまおうか?と何度も思った。しかし口に出そうとする度に、
(お主、一生後悔するぞ!)と心の中のもう一人の自分「荒魂」が強引に押しとどめた。
「公演が終わって祥子さんからメールが来たの。聡ちゃんが熱出して寝込んでるって…38度越えてたのよ」
状況からして実母の緋沙子が、熱発した自分を看病してくれていたらしい。
あれ?俺、この部屋に帰ってからどうしたっけ?空海さんが国宝級の琵琶で弾き語りを始めてから…やっぱり記憶がない。
そうだった、母さん今夜は市民ホールでリサイタルの予定だったな。知っていたけど、チケットを送って貰ったけど…行かなかった。いつもの事だ。
家を出て行ってからの緋沙子はイギリスの田舎で療養した後スランプから立ち直り、演奏旅行、CDの録音など精力的にスケジュールを詰め込んだ。まるで家に帰れない理由を作るかのように。
今夜の母は化粧っ気の無い疲れた顔、強い縮毛の髪を無造作にゴムで束ねている。薄いブルーのリネンシャツに白のコットンパンツ。いかにも上品な近所の奥さん、という出で立ちである。
あれれ、母さんと二人っきりになったのは久しぶり、っつーか、この家出てって以来じゃね?
おい俺、なんか気の利いた事言えよ、じゃなくて、素直になれよ、俺!
聡介は言い寄って来た女の子を口説く時の5倍の勇気を振り絞った。
「…母さん、ありがと」
聡介は自分のパジャマの前が開いて胸がはだけているのに気づいて急に恥ずかしくなった。まさか、体の汗も拭いてくれたんだろうか?慌ててパジャマの前を合わせる。なんで俺は母親を前に照れてるんだよ!?
「看病ぐらいさせて頂戴よ!聡介とちゃんと二人で話すの、たぶん3歳児検診以来なんだから」
緋沙子の声が泣くのをこらえているのに聡介は気づいた。ああ、覚えていてくれたのか…。なんとなく心が救われた気がした。
「あの時のこと、恨んでる?」
氷水を入れた洗面器で緋沙子がタオルを絞りながら聞いた。熱で体がだるいのと恥ずかしさでこの場から逃れたい気持ちでつい険のある言い方になった。
「結局母さんは何から逃げたの?化け物じみた俺?それともすべて?」
ちくしょう、頭がぐらぐらする!聡介は仕方なく枕の上に頭を投げ出した。
そうね…と緋沙子は息子の額にタオルを当てて28年前の過去の出来事を一つずつ整理するように短い言葉を区切りながら本音を語り出した。
「あなたのお父さん、祥次郎さんとあなたと…ずっと生きていきたかった。それは本当。
あなたが2才の時に祥次郎さんの癌が見つかって、それも手遅れで、たった3年の結婚生活だった。ピアニストとしてもスランプになった。夫も仕事も無くしたと思って私は絶望したわ。
鉄太郎おじいちゃんが励ましてくれたから自分を保てたようなもの。
それから半年間は聡介、あなたに向き合ってしっかり母親として強くならなきゃ、と頑張った。でも3歳児検診の後のあの事故で…私はまた心がぐちゃぐちゃになった。
私はとんでもない人を産んでしまったかもしれない。と怖くて怖くてたまらなくなった。母親としても限界を感じた」
母さん、俺はもう責めてないよ。聡介は目をつぶって母の言葉を丁寧に拾い上げた。
「あなたを育てるには、私の器は小さすぎたの。
あなたを育て得る人は、鉄太郎おじいちゃんしかいない。ミュラー先生の紹介で私はイギリスの精神科医の所で治療を受ける決心をした」
ん?ミュラーじじいがこの一件に絡んでやがったのか!?そうか、じじいは父さんの親友だったな…
「紹介された先生はスランプになった演奏家を何人も復帰させた名医だという事で…
ちゃんと仕事復帰して、強くなった敷島緋沙子としてあなたを迎えに行きたいと思ってこの家を出たの。
治療に2年かかってピアニストしては立ち直ったけど…
母親としては駄目ね、野上家からあなたからわざと逃げてた。一旦息子を捨てた私をあなたは憎んでいる。やっぱりわが子を手放すべきじゃなかった…」
緋沙子はしばらく、息子のベッドの脇で静かに泣いていた。
こうやってお互いの本音が分かっただけでいいんだ、母さん。良かった。あの言葉、「もう会うのは止めにしないか?」とこの人に言ってしまわなくて、良かった。
(な、だから止めたであろう?)と荒魂が心の中で嬉しそうに言った。
なああんた、もしかして俺の前世かなんか?なんとなーくあんたの正体見当ついてきたけど…すごい有名人だったりする?
(それは自分で確かめるがよい。今は寝よ、そして真実と向き合う力を養うのだ)
夢の中で銀髪の男が聡介のまぶたを閉ざした。
「聡介、寝てしまったの…?」
顔を上げた緋沙子が眠りに入った息子の顔を見つめた。
寝顔は驚く程亡き夫に似ているが、三白眼でやや目つきが悪く見える所や、頭頂部がくせっ毛な所は私に似ているのね。そして多分、繊細だけど強がりな性格も。
この子はきっと愛に迷う苦労をするかもしれない、と緋沙子は思った。だって私も祥次郎さんに告白するまで時間がかかったもの…
結局、優しいくせに不器用な所がこの親子は似ているのだ。
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