電波戦隊スイハンジャー#43

第三章・電波さんがゆく、グリーン正嗣の踏絵

時は光のように6

8月18日。この日付を私は一生忘れないでしょう。


昨日の朝、熊本市内の白川河川敷で若い男性の遺体が上がった、というニュースを私は家族と朝飯を食いながら見ていました。


「いやねぇ、市内も物騒にならした。マー君も気をつけなっせよ」


と、当時は元気だった母が言いながら、ご飯をよそってくれました。


地元の局アナが平板な口調で読み上げる事件の内容を、私は母の得意料理だったニガウリの甘味噌炒めを食いながら流し聴きしていました。


当時私は京都の大学の4年生。哲学の学位を取ろうと、大学院に進む準備をしていました。


普通、寺の跡取り息子は大学を卒業すると同時に住職の資格を取るために(真言宗の場合は阿闍梨)宗派の総本山や教育施設で修行に入るものですが…


なぜか親父はそれを許さずできる範囲で寺の手伝いをしていました。いわば坊主見習いです。


私立の大学に進んで金もかかってるのに、あろうことにか、私は哲学をもっと深く学びたい、と親父に直談判しました。


「坊主の常識は、社会の非常識。それでもいい」


返事は、呆気に取られるほどの快諾でした。実は親父もこの寺に婿に来る前には、坊主と教師の二足のわらじを履いていたのです。


「俺は中学校で国語の教師をして、ここに来てから本格的に坊主の仕事を始めたが、つくづく思ったよ。


教師とは世間知らずだ。学校の常識は、社会の非常識だったって。


ついでに他の仕事をして、バランスの取れた人格を育てるとよかぞ。25までは、好きなことばせい」


親父は京都から熊本の菊池に婿に来て23年、すっかり熊本なまりになっていました。

酷暑になりそうな、朝8時の日差しの中で、親父は熱い番茶を啜っていました。


15日までお盆の法事ラッシュで忙殺されていた私たち親子が、やっと一息ついた、と思うひと時でした。


午後には、ふもとに住む幼馴染の優作が遊びに来ました。優作も熊本大学薬学部の4年生。やはり夏休みで実家に帰省していました。


優作は生意気にも大学に入ってすぐに薬学部の同級生の千夏ちゃんという彼女を作っていました。


4年も付き合っているのだから、薬剤師の資格を取ったら2人は結婚するんだろうな、と私は思ってました。


寺の庭には木々が繁っていて、私の部屋も、窓を開けただけでクーラーいらずの涼しさです。優作は一番暑い時間帯に、わざと寺に涼みに来ていました。


千夏ちゃんとのデートとお盆の繁忙期以外毎日です。


「弱」に設定した扇風機がゆったりと首を回していました。午後2時のことです。


優作は畳に寝っ転がって少年ジャンプを読んでいました。


「ねぇ、マサ」

と優作が聞きました。「ワンピースの女の子で、誰が一番好き?」と唐突な質問を

彼の顔は、漫画雑誌で隠れて見えません。


「ニコ・ロビンさん」と私は、「ソフィーの世界」を読みながら答えました。


しぇー、と優作は笑ってジャンプを口元に覆いました。


「やっぱりマサは、知的な女の子が好きねー。中学の頃も学年トップの忍ちゃんが初恋だったとやろ?」


私は本を取り落しました。「だ、だ、誰から聞いた?」


「小6年の同級だった裕孝くんたい。春休みに同窓会ばしたろうが」


「ああ、ヒロタカか…あいつにはなんでコクらんとか?てせっつかれたたい。ユウ(優作)とは大学の同級だろ?」


「校舎は離れ離れだけん、たまに飲むくらいよ。あいつ県庁職員志望よ。んで、マサはコクらずに終わって、忍ちゃんはこないだん6月に嫁行ってしもうた…相変わらず、女に奥手ねぇー」


仕方なかばい、という私の言葉だけが、宙に浮きました。


寺の住職の夫人の仕事は法事毎の準備、お檀家さんたちへの接待、墓や納骨堂の管理など、想像以上の忙しさです。


母は家付き娘で小さい頃から寺の仕事を知っているからもっているようなもので、それでも、8月盆が終わった頃にはげっそりと夏痩せしている。


年々母は、体が弱くなってきたな…と思っていました。(この5年後に癌で亡くなるとは想像もしなかったのですが)


それでも、寺に嫁に来てくれる女性を見つけるのは平成の時代なかなか難しい事なのです。


「結婚前提のお付き合いかよ!マサ、そん前に恋愛せんかい!!」

優作は少年ジャンプを、ばさっと畳に伏せました。


「じゃあさ、ユウは好きなワンピース女子は誰ね?やっぱナミさんね」


「はぐらかしたな…」


「やっぱ、おっぱいかい?」


互いに22才の、健全な男子の会話でした。優作の彼女の千夏ちゃんとは、何度も優作を交えて一緒に食事をしたことがあります。が、千夏ちゃんの胸はお世辞にも膨らんでいるとは言えませんでした…


「ち、千夏は貧乳じゃなかっぞ!!」


「脱いだら、スゴイとかい?」


坊主らしくない下世話な冗談で私は優作をからかいました。当時はまだ若かったものですから…


まあこんな軽口叩き合えるのも、幼馴染の親友だからです。こん生臭坊主が!と優作はじゃれつくように私に組みかかりました。


突然、親父が部屋の襖を開けて入って来ました。


いつになく強張った表情から、親しいお檀家さんに事故などの不幸があったのか?と思いました。


が、意外な事に、優作を見て「ちょうど来てくれててよかった」と親父は言い。


後ろにいて心配そうに口元を覆っている優作の母親と、年の頃40半ばくらいの、麻のスーツを着た半白髪の男性が、テレビドラマでよく見る、あの手帳を見せて挨拶しました。


「熊本北警察署の野村です。本日は、市来優作くんに色々伺いたい事がありまして…」


まさか、まさかと呟き、優作の横顔はみるみる蝋燭のように白くなっていました。


「今から、北署へ一緒に行く」と親父は言いました。


朝食のニガウリの味とともに、今朝のニュースが脳裏に浮かびました。


白川で上がった遺体。


これは、只事ではないな、と思いました。


優作の母は薬局の仕事があるので、ちょうど予定のなかった親父が、優作の付き添いを買って出ました。母に留守番を頼み、私も優作に同行しました。


「もしかしたら市内で一泊するかもしれん。喜美江は疲れとるから、鐘つくだけでよかよ」


珍しくスーツに着替えた親父が、母の体を気遣って言いました。なんとも、ざっくりとした住職もあったものです。


北署へ向かう車中、野村刑事さん、運転している若い刑事さん、事情を知ってるらしい親父。そして優作。全員無言でした。


私の頭の中は溺れるほどの「?」マークで溢れかえっていました。


普通人が死んで、坊主が出てくるのは一番最後です。


まず医者が看取るなり検死するなり「ご臨終です」と死亡診断書を書き、看護師がご遺体の処置(エンゼルケアという)をし、ご遺族が葬儀屋に連絡して通夜や葬儀の打合せをし、ご遺体に装束を付けて納棺する。

そして、檀家に入っている寺の坊主が出てきて通夜をするのです。


署で待っているご遺体は、優作も親父も、知り合いの人物かもしれない。


首筋がぞくぞくするような、いやな予感がしました。



やがてレゴブロックを逆三角形に積み上げたようなシュールな外観の北署が見えてきました。


「市内は暑かですねー」と親父は扇子を広げてぱたぱたやりながら、刑事さんと雑談していました。


「都市部ほどこげん暑さですたい。ヒートアイランド現象ていうとですたい」


野村刑事も額の汗をハンカチで拭いながら、顔をしかめて言いました。


「昨夜司法解剖しましたけん、顔以外は、あんまし見んがよかですよ」


警察の遺体安置所に、私は初めて入りました。向かって右側には、蝋燭とお香のシンプルな祭壇があって、中央に、白いシーツをかけられたご遺体…


身震いして入らなくなさそうにしている優作を、親父が叱咤して中に入れました。


「不幸中の幸いというか、顔『だけ』は、綺麗ですけん」


運転して送ってくれた花田という若い刑事が、ご遺体の顔にかけられた布を取りました。


家の仕事柄、人の死顔には見慣れていたはずの私が、生まれて初めて戦慄というものを覚えました。


涼しげにカットされた髪は、どこかの金のかかる美容院で仕上げてもらったようにお洒落な外観でした。


地黒の皮膚に形の凛々しい濃い眉。そして、右目の下の2つ並んだほくろ…


ご遺体は、まさしくタケヲでした。


子供の頃の面影を残したままの苦味走ったいい男にタケヲは成長していました。


いいえ、成長という言葉はもうそぐわない。目の前のタケヲの時は永久に止まってしまっているのです。


顔は、深く熟睡でもしているような、おだやかなものでしたが、首から下…大きな青黒い痣や、煙草の火を押しつけられたような火ぶくれの痕。


タケヲが加重に暴行を受けていることは、シーツから覗く傷を少し見ただけで窺い知れます。


殺人事件だったのか!タケヲ。どうして、どうしてこんな目に?


「本当に、綺麗なお顔をしている…」


親父は声を詰まらせながら、タケヲの亡骸に合掌しました。私も、震える手で親父を真似ました。大きな石を飲み込んだように喉がつまり、酸っぱい唾液が、口中に溢れていました。


うわあああああっ!!


室内に、孔雀が鳴いたような甲高い叫び声が響きました。優作です。


「ごめん!タケヲ、ごめん!!僕が君を…殺した…!」


殺した?


優作の引きつった横顔だけが、私の視界でクローズアップされました。

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