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嵯峨野の月#108 高野

第5章 凌雲6

高野


師、空海から託された文書と図面を丁寧に櫃に詰めながらもうすぐ高野山へ向けて旅立つ泰範たいはんの脳裏に浮かぶのは…かつての恩人、和気広世わけのひろよとの最後の会話。

「私はがい(肺結核)だ、もう長くはない」

と広世に言われて泰範は顔を上げ、そういえ元々細かった広世さまの体つきと面差しがお会いする度に細くなっていくように思えたのは間違いではなかっのだ!と今まで主の体の変化に気づけなかった自分を悔いた。

「ゆえに、お前の密偵の役目を解く。これからは好きに生きろ」

一言一言発するのも大儀そうな広世の姿が視界の中でみるみる曇っていく。

「そんな…そんな…何処へも行く当ての無い私に今さら好きにしろだなんて」

はらはらと床に涙を落とす泰範の肩に手を置き、

「なれど、このままここに居続けるのはお前にとって苦しみなのではないのか?」

と広世が放った言葉に泰範ははっと顔を上げた。

師、最澄と情を交わした事までは広世には報告していないが既に我が主は既に察してらっしゃったのだ。

あ、そうそう!と広世はわざと何かを思い出したという素振りをして、

「高雄山寺に面白い男がる。

この間そいつの講義を受けて曼陀羅という図面を見て、
『言葉にしてしまったら全てが嘘になるな』

とつい思ったことを言ってしまったが、そいつは

『そうでございます、言葉は一度使ってしまったら瓦礫と化してしまいます』

とあっさり認めたのだ!
仏の言葉にしがみつくのが僧侶だと思っていたのに、

あの男の考えは僧侶の範疇を越えている」

と頬を上気させて高雄山寺にいる僧侶、空海の話題を一度だけ口にした。

「なあ泰範、最澄のもとにいるのが辛くなったら一度私の墓参り(高雄山寺に和気氏霊廟がある)と思って高雄山寺に参詣してみないか?」

亡き主の広世が言ってくれた事を最近やっと思い出した泰範は、

最澄の元を去り、空海阿闍梨に興味を持って濯上を受けた直後に弟子入りを志願したのは全て自分の意思でやったことだと思ってきたが…

もしかしたら全ては我が身を心配して下さった広世さまの御霊みたまのはからいだったかもしれない。

と思うようになり出発の前に師、空海に挨拶をし、それから和気清麻呂と広世が眠る和気氏霊廟に参って、

私を苦界から救いだして下さった上にこうして面白き師と人生を与えて下さった広世さま。
これから未知の領域、高野山へ行って参ります。見ていてください。

与えられた使命に燃えてそう心で語りかけた泰範の脳裏に突如浮かんだのは、

「行っておいで」
という広世言葉と優しい笑顔だった。


「しかし気になりますなあ」

旅の道中、握り飯をかじりながら実慧がそう呟いたのはもう五度め。
「やっぱり気になりますか」そう返した泰範も高雄山寺を出る直前に空海から言われた言葉、

「奈良で仏師を一人、紀伊国(和歌山県)境目で護衛の者が一人加わる。
まあ無理だとは思うが随行者たちに『いちいち』驚かないようにな」

が二人とも気になって気になってしょうがないのである。

弘仁七年の春から梅雨に入る前の雨の少ない季節。

大和国(奈良県)に入る直前の旅の一行は乗っていた馬を木に繋いで草花が芽吹き放題に芽吹いた野原に敷物を敷いて大豆入りの握り飯と漬物という簡素な中食(昼食)を食べながらの長閑のどかな休憩のひと時。

「しかしその者たちは高野山への案内人なのでございましょう?出会うまでくよくよなさいますな!」

と同行の清野は指に付いた飯粒を舐めてから二十代半ばの若者らしい明るさでそう言った。

巨勢清野こせのきよのは桓武朝では歴戦の武官で今は中納言の巨勢野足こせののたりの長男で、彼自身も武術の達人なので嵯峨帝に選ばれた。

従五位上、右衛門佐えもんのすけという宮中武官が実慧と泰範の護衛役として同道している事が既に驚きなのである。

休憩を終えて奈良に入った一行はまずは指定通り興福寺へ立ち寄った。

この寺には椿井氏つばいしという在家の仏師たちが起居しており、主に奈良仏教の壇乙である藤原氏の依頼を受けて仏像を作成するいわゆる職業仏師集団である。

頭である椿井双つばいのならぶに空海からの使いの文を渡すと、「とうとうこの時が来たか!おい」と色白の顔に笑いをひらめかせて双が呼んだ仏師が、金髪碧眼の胡人である事に大いに驚いた。

「我、田辺牟良人たなべのむらとは生まれも育ちも高野山の頂。迷うこと無くご案内させて頂きます」

と金色の睫毛を伏せて牟良人は感じのよい笑みを浮かべた。

「それにこいつにはご本尊の阿閦如来あしゅくにょらいを彫れる程の腕がある。牟良人の彫る仏像は皆美しい」

「ところで牟良人どのはおいくつで?」
と実慧が聞くと牟良人は恥ずかしげに「今年で二十七になります」と答えた。

その若さでご本尊を任せられるとは!

と清野たちは口をあんぐりと開けて驚いた。

既に荷物をまとめていた牟良人を旅の案内役に加えてさらに大和国から隣の紀伊国に入る。

青々とした木々の枝が天蓋のように伸びきった古道の上で清野は突然馬を止めた。

何事ですか?と訝しがる一行に清野はしっ、とすぼめた唇に指先を当てて止まるように指示する。

梢をわたる風の中に「何か」の気配を感じたのだ。

「文字通り木の上から高見の見物か?出てこい曲者!」

わざと相手を圧倒する為の清野の胴間声がこだまとなって古道を駆け抜ける。…風に吹かれてざわめく梢の影が旅人たちを押し包むようでなんとも不気味だ。

(へええ、俺の気配に気付いた武官に初めて会ったぜ)

若い男の声が古道じゅうに響いた。相手は明らかに自分を見聞している。日に焼けた清野の浅黒い顔が険しくなり凛々しい眉が跳ね上がる。

「国の宝である方々を警護しているのだ。これ以上我をからかうな」

(からかうと?)

「斬る」

と清野が刀に手を掛けた時、彼の頭上から大猿のごとき人影が飛び降りて来て、それは直垂に烏帽子を被った小柄な青年の姿をして清野の馬の前でひざまずいた。

彫りの深い顔はとてもにこやかで彼は笑いながら背中に差した長刀と両腰の蕨手刀を自分の前に置いて、

我に敵意無し。という証を見せた。

「我は高野山の麓、天野の里に住まう賀茂騒速かものそはやと申す。ここから高野山までの護衛をつかまつります」

「我は右衛門佐、巨勢清野。面を上げよ」

は、と顔を上げた青年は実に澄んだ眼をしていた。清野は柄から手を離し、

「賀茂、という事は葛城かつらぎの育ちだな」

「はい、久方ぶりに強いお方に巡り会えて嬉しくなりつい…許されたし」

それだけで騒速が元は葛城山の修験者で通りかかった清野を見て本能的に「試して」みたくなったのだな。

と武を極めた者同士の阿吽の呼吸で清野と素速は互いを理解した。

「よい、赦す」

清野は笑って素速を赦した。

武人には武人同士しか解らぬ世界が在るものだな…

およそ戦いからは縁遠い世界にいる僧侶と仏師たちは会話だけでにこやかに斬り結んでいる二人を見て背筋が冷たくなったが、この二人が居れば道中何があっても安心だ。とさえ思った。

素速の先導で途中休みながら天野の里に着いたのはそれから丸一日後の夕方。

そこで清野が見た光景は…

「ムラート、ソハヤ、お帰り!」

と一行を笑顔で取り囲む秦一族と金髪に青い目の胡人たち。住人たちの輪の中からずば抜けて長身の筋骨隆々の胡人の男と上半身逞しい色白の男。

「私たちはこの里を取り仕切る田辺の長の波瑠玖はるく、鋳造師です」と胡人の長が、
「そして秦の長の真比人、木工職人です。空海阿闍梨のお弟子と護衛のお方、よくいらっしゃいました」と秦一族の長が、

とても野育ちとは思えない礼儀正しさで迎えてくれた。

高野山先住の丹生一族と胡人の田辺氏、そして麓の秦一族が共生して暮らす場所。それが天野の里だった。

「いやはや、うらやましいくらいのんびりした暮らしですなあ」

歓迎の宴で里の人たちと焚き火を囲んで濁り酒の杯を傾ける清野は、都での謹厳実直な武人の暮らしと比較して正直な気持ちを述べた。

二日後、役目を果たした清野はよほど気に入ったのか騒速に向かって「縁があったらお前と手合わせしたいものだな」と悪戯っぽく笑って都に帰って行った。

二人ともそれが数年後に実現するとも知らずに。

さて、「まずは我と弟子が住むのに足る草庵を二つ建てて欲しい」という空海からの依頼の文を真比人に見せた泰範は、

「最初は小さな草庵から初め、高野山に拠点を移したら最終的にはこれを建立なさるのが我が師の目標」

と拠点となる金堂、そして仏界を現す須弥山を模した壇上加覧の図面を真比人をはじめとする秦の木工職人たちの前に広げて見せた。

「金堂はともかくこの壇上伽藍というのはこ、これは何というか見たこともない異な建物だ…珠の上に屋根が乗ってるぞ!」

「高野の頂にこんな大きな建物を作るのは初めてだ。材木と瓦と大量の丹が要るし、このような精密な設計を実行するには腕の立つ職人も要るぞ」

「ですから師はあなた方に依頼なさったのだと思います」

そう泰範に言われて
かつては奈良での寺社作りに活躍した秦一族の頭は「だな」と得意気な笑みを浮かべて

「よーし、皆の者。今から道具の手入れと材木を運ぶ手筈を整えるぞ!」

二十数年ぶりに本来の役目を与えられた秦一族の男たちは張り切って準備に取り掛かり、実慧と泰範は牟良人の案内で荒れた山道を進み、途中、濃霧の中で杖を握り合いながら二時(四時間)かけて高野山の頂に辿り着いた。

「俺たち胡人の一族がなんとか暮らしていけた所だけど…高野山は他のお山とは違う。ここの厳しさを舐めちゃいけない。真魚さんの理想どおりに行くとは限らないよ」

早速開けた土地の計測にかかった二人の僧に対して牟良人が突き放すように言ったのが気に掛かった。

後から付いてきた木工職人二人も加わり、整地を終えて最初の草庵の建築に取りかかって半月後、なんとか外郭が整って安心して元は鋳造の工房だった石造りの建物の中で眠っていた真夜中の事である。

頭上でばりばりばり…と音を立てて空が光り、しばらくして地を揺るがすような轟音と共に雷が高野の頂の大樹に落ちた。

「な、なんやなんやぁ!?」と飛び起きた僧侶二人はあまりにも大きな落雷に身を震わせる。

「光ってから四つ数えて落ちたからだいたい半里(約二キロ)先だ。こんな夜は慌てて外に出ないほうがいいよ」

高野山によく起こる自然現象、それは落雷。

「ああ…また始まったわ」

雷の夜は決まって眠れない。騒速の妻で丹生一族の姫、シリンは外に出て麓の里から高野の頂の落雷を胸が締め付けられる思いで見ていた。

そんなシリンを心配した夫の騒速が家から出てきて背後から「また思い出しているのかい?」と声をかけると優しく抱きすくめた。

「お父様とお母様が雷に打たれて死んだのを私、遠目から見てしまったの。翌朝見に行くと二人は手を繋ぎ合ってた。兄妹だけど仲のいい夫婦だったのね…」

「怖いことは今は忘れた方がいい、お腹の子が心配するよ」

夫のその言葉でシリンはうなずき、息子たちが眠る家に戻った。

騒速とシリンが結婚して五年、二人の間に男児ふたりが産まれ、シリンは第三子を身籠っている。

頂に住んでいた胡人の一族は「わざと大きな建物を作らない」事で落雷を避けて生き延びてきた。

なのに、わざわざ寺を建てようだなんて真魚さんの計画は遠謀どころか無謀なんじゃないのかねえ?
と心配する騒速であった。

その夜は何度も落雷が続いた。

翌早朝、落雷現場を見に行った実慧と泰範は雷の直撃を受けた大木が縦に真っ二つに裂けて焦げているのを見て…

このような所で果たして寺の建築が出来るのか?途中で落雷に遭って火事で燃え尽きてしまったら?

と胃の腑に大きな石を詰めたような不安に襲われた。

「周りに木の無いところに建てて正解やったな」と泰範はその時は胸を撫で下ろした。
が、
建築中の草庵は小さいから大丈夫、と完全にたかをくくっていた実慧と泰範が高野山の洗礼を受けたのは草庵完成間近の夏。

草庵に雷が落ちて半焼の憂き目に遭った。

もうすぐ終わりって時になんて目に遭うんだい…と肩を落とす木工職人たちに向かって実慧は「我の計算では材木はあと庵が四つ出来るぶん残っている。燃えていない部分は残して修繕するのだ、諦めるな!」

といつにない厳しい顔つきで大声で檄を飛ばした。

途端に職人たちの背筋がしゃんと伸びて「は、はい!」と二人は中腹に置いてある材木を取りに行き、残り二人は燃えた部分を取り外しにかかった。

いつもはお喋りで少し軽薄な人だと思っていたのに…いざとなった時の実慧どのの胆力と指導力は、凄い!

「あの癖の強い麓の住人をまとめられるのは実慧しかいない。若い智泉じゃ舐められそうだから」

と仰っていた師、空海に「実慧阿闍梨…ですか?」と不遜にも聞き返した事がある。その時の空海の弟子評、

「二十年以上奈良仏教の坊さんの中で揉まれて一人も敵を作らずに来た実慧の世渡りの術と現実的な打算力はわし以上や。それに」

「それに?」

「逆境に遭う程張り切る。という海の豪族、讃岐佐伯氏のどうしようもない血がわしとあいつに流れている。まあ、くそ度胸という奴やな」

とにやり、と笑う師の顔を泰範は思い出した。
それから2年の間に実慧と泰範は自らの足で高野山周辺を視察して全体の地図を作成し、何度も都にいる空海の元へ送った。

やがて高野の頂に花も咲かない程の厳しい冬が来た。

「俺たち先住の者は毛皮を纏って過ごすけど坊さんたちのそんな薄着でひと冬過ごすのは無理だ。麓に降りてください」

という牟良人の薦めに実慧が「もし留まったら?」と寒さで歯を震わせながら問うと

「凍え死にます」
と真顔の答えが返ってきたのでここは従って麓に降り、作業を中断せざるを得なくなった。

途中、二度落雷で火災があり一回全焼、一回半焼したが滅多に出さない本気を出した実慧の、

「お前らは東大寺、古くは伊勢神宮建設に関わった誇り高き一族やろ?ええか、秋には完成させるんや!」

という叱咤と、

「もうすぐです、仏に守られているあなた達なら必ず出来ます」

というある意味人たらしの泰範の励ましによって秦一族は奮起し、

弘仁九年(818年)十一月には、空海自身が勅許後初めて高野山に登り完成した草庵の中で法灯が灯り、空海、智泉、実慧、泰範による真言の声明が響き渡った。

この時は麓の住人ほとんどが草庵に参詣し、拝火教徒である筈の胡人たちも合掌して真言に耳を傾けるので秦一族は、

坊さん達の努力に心酔して彼らも密教に宗旨替えしたかと思った。が、

空海自身が灯した法灯、実は拝火教徒が守る不滅の火から分けて貰ったものである事は…

天野の拝火教徒と空海だけの秘密。

儀式が終わった後、
牟良人が彫ったご本尊の阿閦如来あしゅくにょらい座像を前に実慧と泰範と牟良人は
車座になり、

「わし…なんだか涙が止まりませんのや」
「泰範はん、わしもや」
「俺も何度かめげそうになったけどさ、彫って彫って無我夢中でここまで来た」

と肩を抱き合って男泣きに泣いた。

「その通りや、あんたはんらは本当によくやってくれた!」

と本堂に入ってきた空海の力強い抱擁と

「帝がなかなか離してくれんかったけど、今日から一年はここにいるから。よくぞ大役を果たしてくれたな」

という心強い言葉に二人の阿闍梨と一人の仏師はさらに泣いて「よしよし」と空海が彼らをまとめて抱き締めた。

この夜から千二百年の聖地、高野山の伝説が始まる。

後記
ある意味北風と太陽な実叡と泰範。現場監督はつらいよ。


























































































































































































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