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嵯峨野の月#117 朔日の色

第6章 嵯峨野1

朔日の色

その皇子は
自ら皇族に生まれる事も
長じて親王として遇される事も望んではおらず兄帝に臣籍降下を願い出たけれども

「式家出身の夫人、藤原旅子を母に持つお前を皇族から外すわけにはいかない」

とかなり厳しめに断られ、臣下というただ人になって自由になるという唯一の途も断たれた。

ならばいち親王として静かに暮らしていればいいさ。
と思って与えられた務めをこなして過ごしていたら二人の兄たち、平城上皇と嵯峨天皇の間に諍いが起こった。
敗者となり出家に追い込まれた平城上皇の皇子高岳親王が廃太子にされ、他に相応しい皇子が居なかったので彼が皇太弟になる他無かった。

なので

この台に置かれた剣と勾玉と玉璽の入った箱を受け取れば自分はこの国の天皇になるのか…

と目の前で行われる践祚の儀が近臣たちによって滞り無く行われるのを見て大伴親王は、

本当は天皇になんてなりたく無かったのに。

と心の中の翳りを緊張した面持ちの下に隠しこの人生の一大事を迎えていた。

でも仕方がない、
我が子たちは皇位継承の列に加えぬ。
我が身は甥の正良親王が大人になるまでの繋ぎだと思って務める。
という条件を不遜にも兄嵯峨帝に呑んでもらったのだ。

それに…
ひと目見た瞬間から狂おしいほど焦がれたあの色を手にする為に。

と自分に言い聞かせ大伴は「あの色」を瞼の裏に思い浮かべて心を湧き立たせる。

「践祚の儀、執り行われました」
と近臣の清原夏野が告げた瞬間、大伴は天皇となった。

弘仁十四年四月十六日(823年5月29日)

淳和天皇じゅんなてんのう即位。

即位礼の後の朔日さくじつ(月1日)、おほきみのお顔はいつになくにこやかであられたな…

と不思議に思ったのは淳和帝即位に伴い天皇の護衛である左近衛少将に任ぜられた藤原吉野。
彼は践祚からずっと浮かない顔をしていた淳和帝が黄櫨染御袍こうろぜんのごほうをお召しになられた時は上機嫌になったのでさては、と思い。

「まさか黄櫨染の御袍を着たかったから即位を引き受けた、という訳ではないでしょうね?」

と二人きりになった時思い切って質問をぶつけてみたら「…ここだけの話にしておくれよ」と御年三十六の帝は少女みたいに顔を赤らめたのでやはりか!と吉野は口元に拳を当てて笑いで吹き出しそうになるのを堪えた。

「可笑しいか?笑いたかったら笑うがいいさ」
いやあ…と吉野は首を振りながら「さすがは着道楽の帝らしい、と思ったまでのこと」と言って笑いを収めるとそれ以上この話題には触れなかった。

嵯峨帝が詔により、朔日や聴政、外国からの使節を受ける際や、奉幣、節会に際して天皇の着用する服を「黄櫨染衣」と定めたのは弘仁十一年ニ月一日のこと。

その二年前、朝議に空海をお呼び出しになりた嵯峨帝は
「空海、お前は唐長安城で皇帝に謁見したそうだがその時の皇帝の服の色は?模様は?」とお聞きになられたので空海は

「は、我が憲宗皇帝に謁見した際の皇帝のお召し物は黄色の衣に青龍の文様をあしらった袞龍袍を着用しておられました」

と自分が思い出したままの皇帝の服装を答えると嵯峨帝は重ねて「唐国では黄色は皇帝しか着てはならぬ絶対禁色なのだな?」とお聞きになる。

「…は、お付きの宦官具文珍どのよりそう教えていただきました」

そうか、と嵯峨帝は御椅子の上で含み笑いをなさり、

「これより絶対禁色ぜったいきんじきの天皇の袍を新調することに致す」

との勅をお出しになられた。
その場にいた参議たちはとうとうこの時が来たか、と思った。
実は即位礼や朝賀の正装である冕服べんぷくが老朽化し、その作り直しに最低でも二年はかかるので正式な天皇の御袍を新調する必要がある。

と問題視し折に触れて奏上していたのだ。
わざわざ阿闍梨を呼び出しての質疑応答には、決して唐国の真似ではない意匠を凝らした新しい御袍でなくてはならない。という帝の強い意志がこめられている。

こうして長年天皇の衣装係を務めてきた女御で嵯峨帝の妻、百済王貴命くだらのこにしききみょうをはじめ天皇の儀式用の装束を作る縫殿寮ぬひとののつかさ、文様の考証係に陰陽寮などが加わり、

この世に一つしかない天皇の御袍作りが宮中を挙げて行われた。

まずは
「黄色に土色を混ぜた色がよろしいかと存じ上げます、と。
土は中に居り、以って四季をつかさどり、四時を成します」

と陰陽頭が進言し、貴命は太陽の色である黄色と土色を混ぜた色を何度も染色し、夫が満足なさる色見本がなかなか作れず彼女は寝るのも惜しんで染色に腐心し爪先を茶色に染めた。やがてはじの実と蘇芳から染色した色見本をご覧になった夫から

「これだ!このくすんだ朱色なら黄丹袍おうにのほうより若々しくなく後の世の年振りし天皇にも似合う色…貴命、よくやった」

とお誉めの言葉を戴いた時、貴命は御子を授かったときより嬉しい、とその場で涙ぐんだ。

生地の色が決まったら次は文様である。
嵯峨帝は迷わず桐竹鳳凰麒麟の文様を生地にを入れる事を決めていた。

あなたさまが肩に乗せていらっしゃる輝く鳥は何なのですか?

と親王だった昔、ある老僧に云われた事がある。
些細な事だがその鳥は鳳凰ではなかろうか、と長年心に引っ掛かっていたのだ。大陸の伝説の瑞獣、鳳凰に関する文献を調べ

鳳凰は霊泉だけを飲み、六十年から百年に一度だけ実を結ぶという竹の実のみを食物とし、梧桐の木にしか止まらない

という記述から鳳凰を呼ぶ桐竹。その根元には太平の世にしか現れないという瑞獣、麒麟の図案を何枚も絵師に描かせ
「うん、これだ」と二本の桐竹の上に二体の鳳凰、根元には二体の麒麟が相対している図案を採用なされた。

初の勅から二年近くかけて完成した弘仁十一年ニ月一日(朔日)。

御自ら黄櫨染御袍をお召しになった嵯峨帝は近臣たちにお披露目なさり、

「これよりこの黄櫨染御袍を天皇の装束とする」という詔を出された。

朔日のお披露目に呼ばれた空海はこれこそ大陸のやり方に倣ったようで実はそうではない日の本独自の天皇の装束や…!とほう、とため息をついて感嘆し、

空海の隣でその御袍を見ていた大納言、藤原冬嗣は昔、夕立ちに濡れて佇んでいらしたこの御方に雨避けの衣を渡した時の事を思い出していた。

そうだ、あれは桓武帝崩御の直後で真っ赤に染まった空から雨が降り、まるで天が血の涙を流しているかのような光景だった。

俺はあの時、

春宮ひつぎのみこさま、どうぞ…」

と初めて神野親王に声を掛け、親王さまは渡された白いきぬかづいてその衣が紅い光に染まってまるで天から与えられた朱の衣を纏っていらっしゃるように見えたのだ。

これこそ、天がこの国の主にお与えなさった朔日の色…

淳和帝に譲位後、嵯峨上皇は主だった妻子を連れて冷泉院にお移りになり、

「退位して残念なのはあの黄櫨染袍に二度と袖を通せなくなった事だよ…私よりも大伴の方が似合ってるのが悔しい!」

とこぼして皇太后になった妻、嘉智子と周りの宮女たちをを呆れさせた。
 
この年の朔日に禁色となった黄櫨の色は、千二百年後の世にも永く受け継がれる。

若葉が雨露に濡れる季節、九条にある泰範の妹の家を訪れたのは嵯峨帝退位に伴って引退を願い出、今は一院に閑居(隠居)している藤原三守。

「自分が年を取ったと思ったらさっさと引退してしっかりした若者に後を任せるがいいのさ」

と長年の宮仕えから開放されてさっぱりした顔の三守は貴人の来訪に畏まる泰範に向かって、
「ところで天台宗からの誘いを断ったそうだね」と穏やかな笑みのまま聞いた。

一年前、比叡山にいた頃の同門の弟子であった光定こうじょうが最澄の訃報を知らせにこの家を訪ねて来た。

泰範より二つ年下の光定は小柄でふくよかな体つきと丸っこい目鼻立ちをした愛嬌のある外見と生来の喋り好きで人嫌いの最澄に代わって朝廷や東大寺との交渉役を長年務めてきた。

「とまあ、師匠の最期のお言葉は『一隅を照らして傍にいる者から救え』と…最初の理想とは真逆の結論でしたね」

「和尚なりの悟りを得て逝かれたのではないか。と私なりに思っています」

光定は比叡山にいた頃、泰範と最も心安くしていた僧侶である。新しく天台座主になった円澄が光定を差し向けて来た目的は既に解っている。

やれ戒壇の設立に忙しい、だの義真どのは張り切っている。だの比叡山での近況を語る光定に向かって泰範は

「この際ですが私に天台宗に戻る意志はありませんよ」

ときっぱり告げた。

うん、うん。と得心してうなずいた光定は

「やっぱりそうでっしゃろな」

と自らの剃髪をぺちん、と叩いて笑い、これ以上勧誘の話題には触れなかった。

天台宗に密教を取り入れる事に執心した最澄の遺志を継いだ円澄が阿闍梨号まで得た泰範の引き抜きに動くのは無理からぬ事。

だが我が空海阿闍梨にに弟子入りしてもう十年。我の心が動く事などあろうか。

「ほな達者でな」
と爽やかに笑って去る光定を見送った。

「あの人たらしの光定がお前の引き抜きに失敗したとはねえ」
 
話を聞いた三守は腕を組んで思案顔をし、何でこの場末の九条の家に三守どのがいらっしゃったのか?と疑問に思っている泰範に文箱を手渡した。

「東寺での学舎建設が進まないと聞いて居ても立っても居られずに来た」

許可を得て泰範が箱を開けると中には三守所有の左京九条の別荘を寄進する旨の文書が全て揃っていた。

例え庶民でも学ぶ気があれば身分を問わず全ての学問を学べる大学を作る。

それは空海の理想で悲願でもあったが土地も木材も確保できず計画が宙に浮いている
のが現状だった。このような時になんと有り難い救いの手か!

「これは藤の三守による私的な寄進だ。隠居の身である今のうちに済ませといた方がいいと思ってね」

と言って三守はぎゅっと片目を瞑った。

この時三守が寄進した家屋敷を丸ごと使って開かれた学舎がこの国初の私立大学、綜芸種智院しゅげいしゅちいんとなる。

ちょうどその頃、妹夫婦に耳寄りな報せを持って阿保親王邸を訪れたのは田辺牟良人たなべのむらと

彼は今や八面六臂の美しい仏像を作る仏師として活躍し、東寺の仏像製作の為に都に常駐している。

「つい先月唐商の船でこの国に入ったばかりの胡人の一家が今度西市で店を開くそうだ。俺たちと同じ拝火教徒の仲間かもしれない…是非とも会ってみる価値はあるっ!」

義弟の騒速に興奮気味に語る牟良人の後ろでは妹のシリンが廊下をどたたたっ!と走り回ってすばしこく逃げるみずら頭の童子を追いかけている。

「んもうっ、行平王ゆきひらおうさま!観念なさって下さい」

と阿保親王の長男で今年五歳になる行平王の胴体を膝で押さえつけ、

「やだやだ、爪切りやだー!」 

とみずらを振り乱して叫ぶ行平王のお手を掴んで「貴人の身だしなみはまずお手元からですからねっ!」と叱りつけて手早く主のお子様の爪を切り始める妹を見ていた牟良人は…

「いくらシリンが行平王の乳母といっても、あれは皇子さまに対して荒っぽくはないか?」

と真顔で騒速に向き直り、子育ては厳しくが信条の妹だが皇族に無礼を働いていつ責めを負うかわかりゃしない。と本気で心配した。

「よいよい、行平はちと元気が過ぎるからシリンどのに躾けてもらうぐらいが丁度よいのだ」
 
そう牟良人に声を掛けたのはこの邸の主で行平王の父、阿保親王。

三年前、嵯峨帝の鷹戸たかかいべ(鷹匠)として都に呼ばれた騒速一家は慌てて紀伊の里から都に出てきたもののなかなか空いた家が見つからず困っていた所を以前仕えていた阿保親王が

「それなら我が邸に住んではくれないか?ちょうど信用出来る用人が欲しいと思っていたところだ」

と声を掛けて下さり、一家は有り難く阿保親王邸の用人として住まわせて頂く事になった。

こうして阿保親王と賀茂騒速は再び主従関係となった。

その頃阿保親王は侍女との間に待望の第一子、行平王を授かっておりまだ二歳で何から何まで手がかかる行平王の乳母役をシリンは仰せつかった。という訳だ。
 
都に来たばかりの頃は頻繁に嵯峨帝が鷹狩りにお出かけになるので目が回るほど忙しかったが、今度の帝は狩りよりも文物を好まれるお方。当分は暇だろうなあ…

と思っていた頃に降って湧いたような胡人一家の来日の報せである。

「その一家に会ってくるが良い。そして彼の者らからの異国の話を聞かせておくれ」

嵯峨朝から淳和朝からへと滞り無く御代替わりし変事のない平穏な世が十四年続いている昨今、阿保親王も刺激を求めていた。というところか。 

当時、平安京の官営の市場は東市と西市に限定されていた。 

毎月一日から十五日まで東市、十六日から月末まで西市が開かれ、日用品や衣類等の買い物は全てそこで調達しなければならない。

市の客は貴族家の使用人がほとんどで主から必要な品を言い付かって買い付けに来るのである。

現在の平安京右京七条二坊四町辺りで西市は開かれそこには干した魚や肉、野菜などの食糧は勿論、中には唐渡りの香辛料や薬草、化粧道具など珍しい品物を売っている店もあった。

騒速とシリン、そして義兄の牟良人は商いをしている渡来人の店何軒かに胡人の商人はいないか?と聞き込み調査したところ、

「そういえばここから三つ先の織物を扱っている店の主は胡人だと聞いた」

と有力な情報を得、件の場所で織物を並べる青みがかった褐色の肌の男女を見つけた。男の方は黒い口髭をたくわえ、女の方は頭部に薄い白絹の衣を被っている。

どちらも顔の細部の造形がはっきりした整った顔立ちをしている。騒速たちが「あのう…」と声をかけると男の方がまずは顔を上げてにこりと笑い、次に牟良人とシリンの容貌に驚いた。

「この国に来て金髪碧眼の人を見るとは!さてはあなたたち胡人か?」 

そうだ、と牟良人が胡語で答えると商人の男は辺りを伺い、着衣の衿をめくって見せたのは…拝火教徒が生涯身に付けるべき肌着と輪の文様をした首飾り、プラヴァシ。
 
─とうとう見つけた!

牟良人と騒速が男の前で衿をめくって同じものを付けているのを見せると彼は胡語で女性を呼び付け「見てみろ、プラヴァシは実は鳥だったんだ!古《いにしえ》の拝火教徒は生き残ってたんだ!」
と喜色満面にして騒速と牟良人に抱きつき

「同胞よ…」

と胡語で囁いてからしばし嗚咽した。

昔、この世で最初の祈りの教えを受け継いだ白い肌の子孫と褐色の肌の子孫が遠い異国の島国の道端で出会った。 

シリンも褐色の肌の夫人と抱き合いながら強く祈った。

たとえこの先何があろうとこの世の数多の人々の行く先に、

光あれ。

後記
令和の現在まで続いているあの衣装作成秘話。
日本初の私立大学設立の経緯。

そして、遥か極東の島で邂逅した拝火教徒たち。






 








    





































  
 





 
 

 


 












 



































 


















 














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