うどん屋㐂八
江戸の昔は七の字を三つ重ねて㐂と読んだ。
これは古来より縁起の良い数字である七をさらに三つ重ねて屋号にし、客を呼び込みたいお店のおまじないみたいなもので、東京の老舗にもいくつかこの字を残した看板がございやして…
うどん屋㐂八は麺の材料は讃岐から仕入れ、塩は赤穂、と全てにこだわり抜いて十の頃から粉を練ってきた小柄ながら筋骨逞しい店主、喜八が打つ麺はどの店が打つものよりも歯ごたえがあって腹持ちするので客が絶えない名店である。
筈なのだが、おりしも原産地讃岐に干魃が起こって仕入れる粉のが価格が跳ね上がり、商品も値上がりせざるを得ない。
常連のお客さんは「いいんだよ、値上がりなんて一時のことなんだから私はお前さんが打つ麺を食い続けに来るよ」と言って下さるが…
なんせこの不況、皆、財布の紐を固くしなきゃ生き抜けないから次第に客が減った。
客の身分を問わず質の良い麺を出し、気取った商売をしないのがこの店のいいところなのだから値上げも最小限にしかしない。
と固く決めていた喜八だが…
閉店後、売り上げを数える女房の菜津はふかーいため息をつき、
「どうすんの?あんた。そろそろ値段を元に戻さないとお客さん帰ってこないよ」
と段々けわしい目つきになる。
そうだよなあ、人間、腹が膨らむためならどんどん安い店に流れっちまうもんなあ…
粉の値が戻らなくなったらどうする?四代続いたこの店畳むか?と不安な考えがよぎった時、四年前からやっている副業の大きな稼ぎの話が来た。
「なあに、廓で遊ぶ旦那衆のご機嫌取って『的を射る』だけでいい。これはさるお大名筋からの頼みだから報酬は三百両」
「そ、それだけの相手なんですかい?」
副業仲介人の主に肥後象嵌を扱う室町屋さんが髷も眉も肌の色も白いのでお蚕さん。と呼ばれる穏やかな顔つきが一瞬にして獣の目つきをし、的の名前を告げると喜八は愕然とした。
よ、よりにもよって⁉︎…でもやるしかない。
生きる為にならどんなにも汚くなる。それが人間ってもんだ。
そして三月後、肌寒くなってきた秋の吉原で幇間(太鼓持ち)に変装した喜八は旦那衆におべんちゃら言って無料で飲み食いさせてもらっても酒は袖口に流して決して飲まない。
「さあさ、日の本一と呼ばれる旦那も全勝祝いに飲みねえ」
と的の杯にさんざ酒を注ぎ、相手はこれをぐいぐい飲み干す。
夜が明けて空が白む前に旦那衆の最後尾で大門をくぐった的の大酒がいま回ってがくっ、と膝を付いた。
いまだ!
ちょうど自分の姿が隠れるよう建物と建物の間に身を滑らせた喜八は袖の中に隠していた太い腕でむんず、と的の襟首を掴み、長年麺を打って鍛えた指でこきり。
と的の頸椎をひねれば良かった。
ぐう、と鼾みたいな声を上げて眠るように事切れた大関、明石の骸を見下ろしながら喜八は、
なんで同い年の、一番好きな相撲取りだったお前さんをこの手で仕留めなきゃなんないのかねえ…
と心では泣きながら路地の闇に消えた。
店を守る為に一番好きな人を手に掛ける不運なんてあるかい?
仕事の報酬で得た金を元手に安定して粉を仕入れる事が出来たうどん屋㐂八はその後、長く繁盛した。
後記
生き残る為には奪うしかないのか?な世知辛いお話。
実は「筋肉力士、明石」のサイドストーリー。
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