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嵯峨野の月#72 王の器

薬子8

王の器

右手の蕨手刀わらびてとうの刃先から滴り落ちる敵兵の血を見つめながら…
やれやれ、戦士一人で敵兵30の首を取ると言われるエミシの王、アテルイとあろう者が。

俺も老いたな。と全身で息を付いてアテルイは思った。

彼の周囲には味方の屍が倒れ、流れた血で地面を黒々と染めている。その下には脚を折られて苦痛で身をよじる馬たち。

田村麻呂よ。

会見でも戦場でも会う度にお前に驚かされる。

まさか…ヤマトの兵たちがたった数年間で大陸の騎馬戦法を体得し、鎧を着けた屈強な武人ばかりを先陣に立たせてこちらの騎手を長槍で突きまくり、歩兵に鉄棒を持たせて馬の脚を折って我が戦士たちの先陣を崩すとはな!

征夷大将軍坂上田村麻呂によるアテルイの拠点、胆沢制圧戦の詳細の記録は無いが、

それはおそらく朝廷軍の全権を任された田村麻呂が桓武帝の鷹狩りに随伴するというかたちで…

職業軍人である武官中心に騎馬兵の訓練を行い、さらにエミシの武器より長く強度の高い直刀や槍の穂先に鉄棒という武器と甲冑を大量に作らせた、当時の最新の製鉄技術と兵力の差でエミシの騎兵団に勝利した、というところではないだろうか。

アテルイは長時間にわたるいくさで疲労してうなだれる愛馬のたてがみをひと撫でし、

「あとひと頑張りだ。これから敵将の首を取りに行くぞ」
と話しかけて手綱を引き、最後の力を振り絞って小札こざね(鉄製の細長い板)を紐で威して作った銀色の甲冑を身に纏って騎乗する坂上田村麻呂の姿を見つけると、

「いざ勝負!」

と単騎駆けで朝廷軍の先陣に突っ込み、蕨手刀を振りかざして襲い来るアテルイを前にして…三尾鉄の飾りを頭頂部から垂らした銀色の兜の下の田村麻呂の顔は、まるで長く待っていた友を待ち受けるかのように笑っていた。

刃のひと振りで二人の騎兵の首を掻き切りつつも将軍どのを狙うエミシの戦士に周りの兵たちがすかさず槍を突き入れようとするのを見て田村麻呂は直剣を構え、

「邪魔するなああああー!!!」

と地が震える程の大声で叫んでこれを止めて好敵手の一撃を剣で受け止めた。

舞い上がる砂埃の中で互いに見事な手綱さばきで馬を操り、斬撃を受け止めてぎん!ぎん!と火花を散らして払い退け、一撃が終わるごとに馬の体勢を立て直しては同時に突進しての騎馬での斬り合いは、

十六交目で田村麻呂の剣がアテルイの刀を叩き折って終了した。

「…どんなに切れ味が良い刀でも血脂にまみれていては使い物にならない。お願いだアテルイ、降伏してくれ」

と剣を収めて目を伏せる田村麻呂の顔にも極度の疲労が滲んでいた。

朝廷軍も主力部隊の全てを出し切って戦士一人で敵30人を倒せる。と言われる程の勇猛さを誇るエミシの全軍1500人を相手に戦い、半分以上の戦士を倒して兵力を削いできたのだ。

今ここで胆沢を制圧しなければ、俺も朝廷軍もここで終わる。

という田村麻呂の不退転の覚悟を見て取ったアテルイは静かな目で田村麻呂を見つめ返すと…愛馬の尻をぽん!と叩いて傷付いた仲間が撤退した処へと駈けて行った。

「掃討はするな。後軍、戦場の整地をして陣を張れ。全軍ここから一歩も引くな!」

馬を降りた田村麻呂は来る途中で山林の木々を切り払って運んで来た後軍に命じて、

後に肝沢城、と呼ばれる堅牢な城塞の建築に取り掛かった。

日を追う毎に成長していく肝沢城の外観を遠くから眺めながら、アテルイは、

エミシの戦士は少数精鋭の騎兵集団である事が強みだが、その兵力の少なさが弱みでもある事を先の巣伏の戦いで朝廷軍に知られてしまった。

北上川を利用した挟撃は、エミシの全軍を投じてヤマトの大軍に挑む「賭け」でもあったのだ。

田村麻呂は今までの将と違って武力ではなく、
エミシの民に今までの紛争の罪を許し、地位と領地を与えて自ら投降させる。というやり方で東国の領地を次々と治め、エミシの物的人的資源を削いで行ったのだ。

田村麻呂が蝦夷に勝利したのは、武力ではなく優れた政治手腕と彼自身の求心力によるものであった。

アテルイは戦場で敵兵の槍を肩に受けて負傷したモレの傷に絞った薬草を練り込んでやると、

「大分傷が癒えたな」と傷を布で覆ってその上に優しく手を置いた。

ああ…とモレは妻が作ってくれた薬湯を飲んでひとつうなずくと、

「しかし、長く休んでいたせいで力が鈍ってしまいました。そろそろ鍛えないと」とひとまわり細くなってしまった己が上腕の筋肉を撫で回して苦い顔をした。

「その深手でか?今激しく動かすと肩の肉が裂けて腕も上がらなくなるぞ…まだ、戦うつもりなのか?」

そこまで聞いてモレは我が主の真意を察し、やがて灰色の両目に涙を溢れさせて…

「悔しい…」
とほとんど外郭を成してしまった肝沢城を見上げてから、泣いた。

延暦21年4月15日(802年5月20日)、黒漆を刷いた革鎧の上に黒い母衣ほろ(マント)に身を纏ったエミシの戦士たちが徒歩で胆沢城の坂上田村麻呂の前に整列した。

「俺は自分以上に人に好かれる男に初めて出会えた…田村麻呂よ、民を傷つけないなら降伏を受け容れる」
「相分かった」
その一言で
アテルイを先頭に500人の蝦夷の戦士たちは武器を前に置いて一斉に両腕を組み、片膝でひざまずく降伏の姿勢を取った。無腰の戦士たちが母衣を翻して、

ざっ!!と足音を鳴らして降伏した瞬間、初夏の風が草原を渡り、遠くから小鳥の声が聞こえた。


巣伏の戦いから実に8年、紛争を繰り返してきた我々がやっとここまで…

と感無量の田村麻呂の背後から無粋な刺客が蕨手刀を手に襲いかろうとしていた。

今だ。今田村麻呂を殺せばヤマトの兵たちは恐慌状態になり、エミシの戦士たちが武器を取って襲いかかれば胆沢城を奪い取れる!と軽挙な判断をした捕虜、伊治呰麻呂これはりのあざまろがまさに蕨手刀で田村麻呂の首筋を狙った時である。

田村麻呂の左手が呰麻呂の武器を持った右手首を捉えてそのままぐい、と後ろに押しやり、己の蕨手刀で右目を深々と突き刺された呰麻呂は苦痛で絞るような悲鳴で喚き散らしてしばらくもがいた後、地面の草を掴みながら息絶えた。

「愚か者め、せっかくの降伏を無駄にするんじゃない」

呰麻呂の骸を一瞥した田村麻呂は「不埒な裏切者を片付けろ」と部下に命じ、かつてのエミシの長、コレハリの無様な最期を目にして唖然としているアテルイに向かって

「さあ、これから停戦に向けて話し合いをしようではないか」

と陽だまりのような穏やかな顔で笑いかけた。


延暦21年8月13日、田村麻呂に連れられて桓武帝に謁見した蝦夷の将、阿弖流為あてるいと副将、母礼もれがその場で貴族たちに下されたのは…

「阿弖流為と母礼。
その方、蛮族にしてかつて朝廷の軍を壊滅させた逆賊である。
従って征夷大将軍の進言『東国のことは東国の王に統治させるべし』などもってのほか。これは猛獣を野に放つようなものだ…従って将軍の進言を却下し、逆賊を斬首に処す」

という今までの田村麻呂の交渉の努力を全て無駄にするような厳命を桓武帝は下し、

「とっとと引っ立てい!」とアテルイとモレを田村麻呂から引き剥がすかのように連行しようと指図なさるではないか。

「お、お待ち下さい!」と立ち上がった田村麻呂の前で、武官達の槍が交差した。

馬鹿な…俺さえも疑うのか?

と田村麻呂は御椅子から立ち上がって血走った目で自分を睨み付ける桓武帝を見上げ、素早くアテルイとモレに「済まない…」とエミシの言葉で話しかけた。

「俺たちは多くのヤマトの兵を死なせてしまったんだ。こうなる事は覚悟していた」とモレは言い、

最後にアテルイが穏やかに笑って、

「お前がヤマトの王だったら良かったのにな」

と語りかけるとエミシの将二人は毅然と顔を上げたまま刑場に曳かれて行った…

「このたわけえっ!阿弖流為にたらされて大局を見失ってしまっているのはお前の方だっ!」

とひとり謁見の間に残された田村麻呂に桓武帝は落雷のごとき激しい叱責を浴びせた。

「なれど…これ以上東征する人員と費用は」

と尚も食い下がる田村麻呂に桓武帝は急に優しい声色になって自分の真の思惑を明かすことにした。

「だから求心力のある阿弖流為に東国を統治させるのが建設的で効率的。と現場のお前が思うであろうがの」
「はい…」
「伊治呰麻呂の一件をどう思う?」
「は?」
とっくに忘れていた呰麻呂の事を聞かれ、田村麻呂は困惑した。

「呰麻呂は背後からお前を刺そうとして失敗に終わった。
もし阿弖流為が東国を治めたとしても、背後から彼を刺して再び反乱を起こすエミシの裏切り者が決して出てこないと言い切れるか?」
「…」
「それに母礼は渤海人の顔つきをしていたな」
「それが何か?」

「もし将来蝦夷の民が大陸と通じ、渤海からこの国土に攻め込んできたら、と考えた事はなかったのか?」

そこまで言われて田村麻呂は、自分は所詮、目の前の問題を解決するだけの能力しかない…

この国の外にまで視野を広げる事が出来ない、
地方領主ていどの見識でしかなかったのだ。と思い知らされたのだった。

田村麻呂に東国の王とまで言わしめたアテルイの存在は、これから政治力で東国を平定しようとする朝廷にとっては、いつ裏切るか解らない脅威でしかないのだ。

征夷大将軍殿まで魅了してしまったアテルイの求心力を恐れた朝廷の貴族たちは、降伏の報を聞いた時から、

アテルイを殺すしかない。と心に決めていた。

アテルイの死を決定させたのは他ならぬ田村麻呂自身の報告だったのだ。

そこまで思い至った田村麻呂は首元に冷たい刃を当てられたようになり、自然に桓武帝の御前で頭を垂れた…

まあいい。と桓武帝はお笑いになり、  

「此度の東征、まさか蝦夷の将を降伏させるとは朕も予測できなんだ…
これはお前にしか出来なかった快挙だ。最大の賛辞を以て誉めて遣わす。朕は肝沢城を拠点にして東国に大宰府を置くつもりでいる。が、生きている内に叶うかどうか…」

「は…有り難きしあわせ…」

桓武帝は自分の思慮遠望を言って聞かせ、田村麻呂が臣下の器しかなかった事を確認すると…心から安堵した。

しかし東国進出という桓武帝の野望はこの三年後、財政的に困難という理由から頓挫する。

エミシの民は武力で積極的に滅ぼされたのではなく長のアテルイの死後は放置され、

抵抗するも降伏し虜囚になった戦士。
ヤマトの名と領地を貰って臣従した領主。
暖かい西の国に希望を抱いて移住した若者。

さらに北の地に移動して己が風習を守り続けながら暮らし続けた者などエミシの民はそれぞれの選択肢で日の本の国土に生き続けた…。

「もう下がってよいぞ、妻子の元でしばらく休め」
「失礼致します」

「処刑は河内国椙山(大阪府枚方市)で行われ、紀昨麻呂きのくいまろさまが一刀のもと見事に逆賊二人の首を落とされました」

と、アテルイとモレの処刑を見届けて来た部下の報告で田村麻呂は、

昨麻呂どのは三年前に敗戦の失意を引きずったまま世を去った紀古佐美どのの長男。

処刑の人選として申し分ない。と久方ぶりに帰った自邸の寝室で脇息にもたれながら思った。

それと…と何か口ごもっている部下に「言え」と促すと、

「昨麻呂さま、逆賊二人に『何か言い残す事はないか?』と尋ねましたところ、アテルイに何か言われて動揺し、涙を流しながら刀を振るわれました…我も役目上何人もの処刑を見てきましたが、泣きながらの処刑は初めてです」

アテルイは最期に昨麻呂どのに何を言ったのだ?

報告を聞いてから田村麻呂はその事がずっと胸に引っ掛かり、半年後に造志波城使として東国に赴く直前、自邸に挨拶に来た昨麻呂自身の口からアテルイの最期のことばを聞き出すことが出来たのだ。

「我は阿弖流為を、父を貶めた仇。と思って恨んでいましたが将軍どのが彼を惜しんだ訳、処刑直前で解り申した…」

「で、アテルイは何と言ったのだ?」

「『お前たちの王は心配な物事を全て潰さねば安眠出来ない気の小さな男だ。ヤマトの武人たちが気の毒でならない』と…
参りました。首を落とす相手に同情されるなんて」

自分が身命を賭して仕えている主の本性を見透かされ、挙げ句の果てに同情までされてしまった昨麻呂の惨めさは如何ばかりか…

「辛いことを話させてしまったな」

と田村麻呂は昨麻呂の気持ちを推し量ってその話をやめようとしたが、

「実は私、田村麻呂どのにアテルイの遺言を伝えに来たのです」
と昨麻呂は決然と顔を上げた。

「我と副将モレの助命嘆願をした田村麻呂に心から感謝する。職責を果たした自分を責めないでくれ、と…
二人の首は、覚悟を決めて死に臨んだ者だけが浮かべる穏やかな顔をしていましたよ」

それでは、任地でのご健勝お祈りしております。と、昨麻呂が下がった後、田村麻呂は懐から数珠を取り出し、

アテルイとモレの冥福を願って長い間読経をした。

あれは18年前の政変の直後、崖の上で大伴娘おほとものいらつめを殺した時に出会った世捨て人の僧に言われた、

人を殺した分だけ人を救いなさい。

という言葉を胸に刻みつけて実行しようとしても、また命を救えませんでした。

戒明和尚かいみょうおしょう

人ひとりの命を救おうとするのは…実は百人殺すよりも難しいのですね。

なれど私は、ある皇子の養育を任されました。これは私の見立てですが…

神野親王こと今上の帝は百人どころか万人の命と心を救うまことの王の器。

「田村麻呂よ、またアテルイの話を聞かせてもらえぬか?」

と正三位、坂上田村麻呂は軍略の教授のかたわら

この御方こそ身命を賭して仕えるべき主、

と見定めた嵯峨帝に昔、東国の民を結集して朝廷軍を前に勇敢に戦った男の話をするのであった。

見ているか?アテルイよ。
お前の命は救えなかったが、

せめて我が主を、お前のように優しくて強い男に。

後記
田村麻呂とアテルイ、後編終わり。次回からまた嵯峨帝vs平城上皇編へ。























































































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