見出し画像

誰かの夢に巻き込まれるという事

最近よく夢を見るのだが、それを家族に話すとき頭の中を完全に共有できる訳ではないので、私が見たものの5割しか伝えられない(自分も曖昧にしか覚えてない時が多い)。私は夢を見るのは嫌いじゃない。無造作で意味が連続していない、物語とも言えないあの時間は、現実とかけ離れている世界に入ったという気楽さと謎の楽しさがある。だから、みんな変な夢を見たと言いながら家族や友人に話すのだと思う。

実家の本棚を漁った時、本くにこさんの作品集『月の花嫁』が出てきた。母が作家・田辺聖子さんのファンであり、その多くの著書の装丁を手掛けた本くに子さんのファンでもある。私が初めて本さんのイラストレーションを見た時の感想は「怖い」だった。その作品のほとんどは、バッチリ化粧のツルッとした肌を持った綺麗な女性が描かれており、表情も柔和で淡い色遣いなのだが、女性たちはどこか読めない感じがして、和室の居間に飾られていた日本人形に抱く恐怖感に似ている。その原因は作品集に載っている草森紳一さんの丁寧且つ鋭い解説であさっり知ることができた。「本さんの絵の本質は、『憧憬』である。」

本さんはかつて熱狂的な宝塚ファンで、その後マイケル・ジャクソンに気を移したという。「はっきり言って、あの整形した顔が大好きなの」と歯切れの良い啖呵を切った彼女の言葉に、草森さんはこう分析する。宝塚の男役とマイケルの共通点は、「単に虚構のスターというより、その虚構の上へさらにもう一つの仮面をかぶって二重構造になっていて、そのことにより、彼等の存在は夢の真実に近づいている。このことは、本さんの絵の世界にも、そっくり言えるのではないか。」さらに、彼女の絵の中の女性たちの美しい顔を喜怒哀楽が表に出にくい「能面」に近いと表現し、人間の魂になんとか姿形を与えようとしたものが能面だと述べている。そして、子どもが時々「いきいきした精巧な人形にも見えるのは、なりふりかまわず、エゴの魂を正面に浮き立たせて生きているからだ。素朴とは、そういうことではないか。大人は、裏に魂を隠し込むので、仮面をかぶらなければ、素朴の力を発揮できない。だとすれば、女性の化粧は、魂の表現だともいえる。」憧憬という文字を見ると、その「心」は「童の景(こどものすがた)」と解けると言う。それは「魂の景色」でもあり、「エゴの権化の子どもは、いつだって魂の権化である。」本さん自身も「憧憬を生きる」ことにより、第二次世界大戦後の困難な時代を生き抜いている。最初は怖いと感じた彼女の絵も納得がいく。絵の中の女性たちは夢見る人のように見えて、足はしっかり現実に根差しているのだ。その強さに今恐れおののく。

化粧やファッションは自己表現とよく言われる。しかし女性はそれを男性にモテるために男性好みにしている人も実際多い。もっと正確に言えば、女性は無意識に自分が良いと思うものは実は男性の価値観であることは多々ある。そして、男女間の話に限らず、個人の価値観は実は社会の価値観であることもよくある。化粧がエゴイズムの表現なのであれば、それが他人のエゴイズムにいつのまにかすり替わっているのは、苦しみをもたらすに決まっている。昔は男性も化粧をしていたが、徐々に化粧は女性の専門となり、また最近男性の化粧が若者を中心に見かけるようになった。男女共に化粧しない事でエゴイズムの表現ができないというわけではないが、「男性が化粧するのは主流じゃない」、「女性はニコニコよく笑うだけでいい」というのは、両方とも同じく権力がもたらす制限である。前者は自分の権力に束縛され、後者は他人の権力に抑圧されている。このことはシモーヌ・ド・ボーヴォワールが『第二の性』で既に明示したことだが、約70年経た今も大した変化はない。整形のマイケル・ジャクソンや宝塚の男役、白馬の王子様やディズニープリンセス、2004年版の『ステップフォードワイフ』で黒幕の女性が屈強な男性像と良妻賢母な女性像の存続を求めたことや、『欲望のあいまいな対象』のように主人公の男性が執拗に一人の女性を追い求めたのは結局自分の頭の中で思い描く女性像を求めていただけであったように、互いに自分の憧憬を相手の中から見出そうとしているのだ。

“The personal is political ”(個人的なことは政治的なこと)。友人TのFBの文章にあったこの言葉は60年代の第二波フェミニズムのスローガンだが、この言葉は多義的で様々な場面、あらゆる差別問題に当てはまる。差別とは自分の憧憬を相手に押し付けることによって発生し、個人の憧憬はその時々の政治によって形成される。それを意識している人はかなり少ないように感じる。『暗殺の森』でも、主人公個人の幼少期のトラウマ体験が成人後の政治選択につながり、政権が崩れたら個人の憧憬も儚く消え去り向かうべき場所を見失っていた。戦争を体験した人たちはよく「一夜にして正しいことが間違ったことになる世界を知っているから、お上のことは信じない」と言う。もう巻き込まれることにうんざりしているのだろう。

最近デモが行われている人種差別問題に対する様々な反応を見ると、私の目には、多くの人は差別を排除しようとしているが、そんなことは不可能であり、差別は別の感情(嫉妬や卑屈などのネガティブ感情)と同様に一生抱えるものだ。差別を排除する、または、差別をしてもいいという夢は必ず暴力という結果が生まれ、行動を起こした最初の目的を見失う。私たちは、物事を考え語彙力を増やし、様々な事柄を定義や解釈しながら区別する、それからまた思考するというサイクルに身を置いている。自分が生まれ育った国にいてもハーフとして差別を受けることがある人間の一人として、私が言えることは、「人間が言語を扱い思考できる限り永遠に差別はなくならない」ということだ。しかし、同時に言語を扱い思考するからこそ差別を行動や態度に移すことを防ぐ事もできる。ハーフからダブルに呼称を変えても何も解決にはならないし、言葉の意味も時代と共に変化するからネガティヴな意味合いが薄まってきた「ハーフ」という言葉を当事者として私はあえて使っている。これで高校生時代に大人と口論になったことがあるが、それから約6年経った今でも考えは変わらない。正しいかどうかではなく、私なりに私の中の差別心を認め一生向き合う覚悟の表れである。

今敏監督のアニメーション作品『パプリカ』で、他人の夢を共有できるテクノロジー“DCミニ”を開発した科学者は、周囲から天才子どもがそのまま成長した大人と呼ばれており、同僚が失踪し、盗まれた“DCミニ”がテロに使われる危機にあるにも関わらず、他人の夢を見られるなんてロマンティックじゃないか〜と言う彼の姿を観て、「科学者の夢に付き合わせないでくれ」と昔ある討論番組の論客が言っていたのを思い出した。科学を否定するわけではなく、夢がなければ進歩もないだろうが、この論客の気持ちはよくわかる。みんな望むものがそれぞれ違い、知りたいと思っていることも違う、という当たり前のことを私たちはいつの間にか忘れてしまう。他人の夢が自分の夢の中に入り込んだ時、個人の意識は奪われる。分野領域間に格差があり、科学、政治、経済分野が力を持ち、その権力を握る人たちの夢に巻き込まれていないだろうか。作品の中に出てくるあのナチス式敬礼は、姿を変えて今も存在する。

憧憬の精神を持ちながらも現実に足をつけて歩むことがいかに難しいことか、今までの歴史で散々失敗が繰り返され続けた。誰かの大きく空虚で現実を直視していない夢に巻き込まれる時は自分の夢がすり替わっていないか注意を払い、自分の憧憬を誰かに当てはめ求めるのは自分も相手も蝕むことを肝に銘じ、憧憬と現実は表裏ではなく、一体化したものとして捉え、本さんや彼女が描く女性のようにバランス良く生きていきたいものだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?