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秋の初めのアイロニー 〜愛媛県今治市の船沈没事故〜 

※令和3年9月上旬noteで公開していた記事を編集し直して投稿


私の祖母や母が生まれ育った愛媛県今治市 大島の宮窪に詳しい宮窪のおっさんから「宮窪むかしむかし」という本を教えていただき、大島の吉海にある、こりおり舎さんから購入しました。


「宮窪むかしむかし」
著者の矢野勝明先生は愛媛師範卒の元教員。


昨日届いて、一通り読みました。
この本の著者、宮窪名誉町民の矢野勝明先生は、私の祖母や親戚らをご存知だったのだと思います。
祖母の家や、親戚のことがいろいろ判ってきました。



「宮窪むかしむかし」を読んで、3件の船の事故を知りました。


■1945年(昭和20年)11月6日

今治市伯方島沖で起きた旅客船「第十東予丸沈没事故」定員209人にたいし、乗客は521人。死亡401人。行方不明14人。


当日、午前七時出航の第十東予丸は、定刻よりやや遅れて出港した。定員二百十名のところ、複員軍人約三百名と、一般乗客等計五百十九名の上に、手荷物を満載していた。見るからに少し傾いて危げに見え、次便を待つ人もあったという。当日は晴天ながら波浪が強かった。九時半ごろ、伯方島六ツ磯の南西二キロメートルの沖合に差しかかった際、折からの突風を受けて、大ゆれに二三回ゆれた瞬間、転覆した。乗客手荷物等の過剰積載のため、復元する力を失い、またたく間に沈没した。

宮窪むかしむかしより引用




■「第十東予丸沈没事故」の翌年、1946年(昭和21年)11月16日
「宮窪丸沈没事故」

昭和二十一年十一月十六日、午後二時出発のはずであった宮窪丸は、土曜日のため、学生の帰省も多かったので、出かけては、遅れ客に呼びもどされること四回であった。これがこの船の平時からの習慣で、人情的な良さであった。しかし、この人情が仇となって遭難した結果になったという者もあった。以下、だれ彼から聞いた事を記録する。当日は、旧十月十一日、風もなくおだやかな天気で、潮も小潮であった。けれども、定員の三倍以上も乗っていた。馬島・仲渡間の中水道の潮筋に出た時、たいした潮流でもないのに、船のおもてを突っ込んでしまった。船室に入れぬ客が上に一杯で、人通りもできないほどであった。船も改造して、船体を長くしたものだったという。

宮窪むかしむかしより引用



今治港を十三時四十分に出航した宮窪丸は大島の宮窪を目指す途中、沈没しました。


事故原因 
乗客定員51名のところ、205名乗船。戦後の混乱により、船不足。動いている船も老朽小型船。


宮窪丸の事故の犠牲者の中に、私の大叔母(祖母の妹)の名前がありました。
「島四国三十八番 あしずりさん海岸」に、犠牲者の慰霊碑もあるようです。
慰霊碑が復元されたのは2016年と比較的最近のことで、それまで埋もれていたようです。終戦後、満州から引き揚げた祖母が、大叔母に会えたのか分かりません。
私も昨日までまったく知りませんでした。
戸籍の字がかすれていて、分かりにくかったです。


大叔母の戸籍の写真一部



※2024/08/25追記
祖父のシベリア抑留の資料に祖母の引き揚げ年月日がありました。
満州から引き揚げた祖母と大叔母は会えたんだと思います。

祖父のシベリア抑留資料



これで、祖母の家の菩提寺が判明しました。

1947年(昭和22年)には、福盛丸が沈没しています。
余所国からも犠牲者が出ているので、その中に親戚がいてもおかしくないと思います。

「宮窪むかしむかし」を読んで、あくまで私の推測になりますが…福盛丸を所有していたのは、私の曽祖父か、親戚だと思います。

※2024/08/25追記 
福盛丸の所有者は、私の曽祖父ではなく余所国の笹の井本店



「宮窪むかしむかし」には、福盛丸所有者が犠牲者に挨拶回りし、お悔やみを述べ、お見舞金とお香典を差し出して帰ったと書いてありました。
お見舞金とお香典は相当な大金で福盛丸船主が供養碑も建てたそうですが、
犠牲者のご遺族の気持ちを考えると、正直複雑な心境です。

戦後の混乱の中なので、いろいろ仕方ないと言えば仕方ないと思います。
ただ、今回のことがご先祖を調べている中で一番悲しいし、できればもっと早く知りたかった。


第十東予丸沈没事故・宮窪丸・福盛丸の事故で亡くなられた皆様ならびに、ご家族の皆様に、改めて心よりお見舞い申し上げます。



先祖調べの費用に充てます。私が調べたものは、ご先祖様や自分のルーツを調べている方とシェアします。