見出し画像

「ムダな仕事なんてない」って言うけど

本やセミナーで時折見かける、

「全ての仕事には意味がある」
「無駄な仕事なんてない」

という文言にはちょっと気をつけたいなと思う。
 
 
若いころに無駄だと思いつつやってた仕事があとになって、
「あの仕事を経験していて良かった」
「あの仕事があったから今の自分がある」
と思うことが多々ある。
 
そんな場面に数多く遭遇するうちに、
「すべての仕事には意味がある」
「ムダな仕事なんてない」
って思うようになる。それは自然なことだと思う。
 
でも本当はそうやって思い出せる以上に、
多くの忘れ去られた仕事があったはずだった。
単に思い出せない、記録にも記憶にも残ってないだけで、
何の価値も生み出せず
何も未来へと繋がらなかった仕事が、たくさんあった。
それらに意味があったのだろうかと問われれば、
意味は無かったと僕は思う。
ぜんぶ無駄な仕事だったと。

もちろんその一つ一つに対して
何かにかこつけて理由付けして、
意味づけをすることもできるだろう。
こんな仕事でもこういう意味があった、
こういう役に立った、だからやっててよかったと。
 
でも僕からすると、
そんなのは意味があるとは言えないというか。
そんなことを考えなきゃ意味を見出せない時点で、
それはもう意味がないに等しいのではないかと。
 
意味が0なのかそれとも0.001ぐらいはあるのか、
そこまでして分別すること自体に意味があるとも思えない。
 
 
また、「全ての物事には意味がある」「無駄な仕事なんてない」という言葉は、人を追い詰めることもある。

こんなことしても意味は無かった。
こんな人と出会わなければ良かった。
こんな仕事やっても無駄だった。

そんな諦観から出るため息も、とても耳障りのいい正論の前では居場所がなくなる。
表層的なやさしさを伴った、軽いロジハラのようにさえ聞こえてしまう。
 
 
そして、そのような志向は、自分の世界の見方さえも狭めてしまう気がする。
  
役に立った、やっててよかったことだけを思い出し、それだけを拾い上げて他は見ないようにする。
今になって輝きを帯びたモノだけ、身にまとって生きていく。
共感しやすい成功談や、キレイにまとまった美しいストーリーだけが人生の全てになる。
 
それ以外の思い出してもらえなかった、拾い上げてもらえなかった経験や記憶は捨て去られていく。
誰にも評価されない数多の失敗、苦労。
果たせなかった人たち。
徒労に終わった仕事、プロジェクト、日常の出来事、人生…
  
でも本当は、世界のほとんどがそういうので出来てるはずなのに。
そのことに目を背けて、いつしか目を背けていることも忘れ、キレイなモノだけを見るような生き方。
 
100努力して成功した人は、90努力して成功できなかった人よりも多く努力したから成功できた。
そして100努力した人は称賛されるけど、90努力した人は称賛されない。
では90努力した人は何だったのだろうか。
 
意味のある仕事もあれば、意味がない仕事もある。
無駄な仕事もある。
それで良いんだと思う。
むしろ無意味で無駄なモノもぜんぶ含めてこその、自分の人生だと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?