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第6回 国柱会 宮沢賢治と石原莞爾①

宮沢賢治、石原莞爾の国柱会入信

宮沢賢治の法華経信仰は島地大等と共に国柱会創始者 田中智学(1861―1939)の影響が大きい。宮沢賢治は石原莞爾と共に生涯国柱会の会員であった。共に大正9年の信行員入信であったと考えられる。

石原莞爾(いしわらかんじ)

石原莞爾は、日本の陸軍軍人、軍事思想家。『世界最終戦論』で知られ、関東軍で板垣征四郎らとともに柳条湖事件や満州事変を起こした首謀者。二・二六事件では反乱軍の鎮圧に貢献した。

後に東條英機との対立から予備役に追いやられる。東京裁判では病気や反東條の立場が寄与し、戦犯指定を免れた。墓は、山形県遊佐町に安置されている。

毀誉褒貶が激しく、その意味においては幕末北越戦争で長岡藩を指揮した河井継之助を彷彿させる。事実陸軍大学校の卒業論文で、北越戦争の河井継之助を選んだという。河井継之助の名言「天下になくては成らぬ人になるか、有ってはならぬ人となれ」の通りの生涯を送ることになった。

石原莞爾
石原莞爾墓所(山形県遊佐町)

国柱会創始者 田中智学

その二人を入信させた、国柱会田中智学をみていこう。
明治~昭和期の宗教家。江戸・日本橋の生まれ。本名巴之助(ともえのすけ)。鐘宇(しょうう)、巴雷(はらい)と号した。父の医師多田玄竜(ただげんりゅう)は、法華信者。幼にして父母を失い、東京・江戸川一之江の日蓮宗妙覚寺で得度、二本榎大教院などに学んだが、やがてその教学を疑い、還俗して1880年(明治13)に横浜に蓮華会をおこして祖道復古、宗門改革を目ざした。

1884年には東京に進出して在家仏教の立場から立正安国会を創立、1887年には日本最初の仏教結婚式を制定、また教学の府として鎌倉に師子王文庫を設立する。さらに1914年(大正3)には、有縁の諸団体を統合して教行を統一して、檀家制度によらない在家信者の組織である国柱会を創始した。この間、日蓮主義組織教学を大成。また、宗教新聞である天業民報を発刊。文学、演芸の分野で布教に尽力した。このことをみれば、政治、軍事の面では石原莞爾が発展させ、文芸では、宮沢賢治が発展させたといえるのではないだろうか。

智学の編著は『日蓮主義教学大観』『本化聖典大辞林』など200種に及ぶが、なかでも『宗門之維新』に啓発された高山樗牛(ちょぎゅう)をはじめ、石原莞爾、宮沢賢治、中里介山ら多くの人々を感化した。なかでも高山樗牛、石原莞爾は山形県鶴岡市出身である。

田中智学

国柱会の「信行員」

ここで、注目したいのは宮沢賢治が大正九年十月頃「国柱会の信行員となった」ということである。 会員として教団の活動に取り組むのは「研究員」「信行員」である。

入会者は最初に研究員とし 修行が確立された教団から認められると、信行員に昇格した。宮沢賢治が信行員として入会可とされたことを考えると、日蓮主義に関する 一定の信仰と理解があったと推測できる。これは石原莞爾も同様である。

智学逝去後の国柱会

今日蓮として著名であった智学が逝去してからは、急速に勢いを失っていった。筆者としては意外であったが、国柱会は現存している。場所は、東京都江戸川区一之江6丁目19番地18号

老人ホームを経営し、宮沢トシの分骨を含め合祀された方を妙宗大霊廟で祀っている。現在国柱会は穏便になり、石原莞爾、宮沢賢治を偲ぶ団体となっている。

妙宗大霊廟

最後に

なかなか整理はつかないが、一度纏めてみることにした。国柱会への信仰を一時期のファナティックなものとしたい読者も多いと思うが、その一時期に何が起きていたのかを見定める必要があると考える。

また対比として石原莞爾をとりあげることは、改めて宮沢賢治を見つめることになりはしまいか。今回は簡単に事項の整理に留め推察は再度改めて取り上げたい。両名共に考えられるのは、未だ進まない日蓮主義の理解ではなかろうか。ゆっくりと取り組んでいきたい。

参考文献
『日本大百科全書』(ニッポニカ)小学館
『田中智学先生略伝』田中芳谷著(真世界社・師子王文庫)
『日蓮主義とはなんだったのか』大谷栄一 著  講談社
『宮沢賢治全集』
ちくま文庫
『イーハトーブと満州国』
宮下隆ニ 著 PHP研究所


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