先見性は「打率」を問わない
先見性という言葉が好きだ。
「先見の明」という言葉には、強い剣士だけが使える奥義みたいな響きがあると思う。
神様に「何がほしい?」と聞かれたら、「先見性がほしいです」と答える。
先見性とは何か
立ち止まって考えてみたい。
「先見性」とは、どのような能力や状態のことだろう。
将来の動きを見抜き、他の人より先にポジションをとれる人。今はだれも見向きもしていない事象に注目して、そこに「賭けて」いる人。
たとえば5年前から生成AIに注目していた人がいたら、その人は先見性がある。
世間に注目されていなかったときから目をつけて、波が来るほうに賭けていた人は、まるで「未来が読める」ように見えるかもしれない。
でも、そこには「手品のタネ」がある。
先見性は予測精度が低くてもいい
「先見性」では確率は問わない。
全部で何発打ってもかまわない。下手な鉄砲数打ちゃ当たる、というように。
仮に100回打って1発しか命中しなくても、「当たった」ことのほうが大事だ。
確率1%で「当たった」ことを、さも「俺にはわかっていたんだ」と吹聴することもできる。別にしなくてもいいけど。
でも、せっかくだから吹聴したほうが「俺って先見性あるだろアピール」としては効果的だ。
先見性と予言は違う
「先見性」は、とにかく一回でも「当てる」ことが重要だが、「予言」となると、そうはいかない。
予言は、精度は相当に高くいといけない。
少なくても7〜8割の打率で当てないと、予言とは呼んでもらえないだろう。
「先見性」は英語でForesightというが、この単語には他に「予見」とか「予知」という意味もあるらしい。
しかし、「先見性」は先が見える(ようにみえる)ことであり、予知=未来が読めることとは見過ごせない隔たりがある。
未来は誰にも読めない
ぼくは「予言」なんて、この世に存在しないと思っている。
予言が外れない人がいたら、いったん別の可能性を疑ったほうがいい。
それは見せかたが上手いか、あるいはイカサマか、そのどちらかだと思う。
両者は混同されているが、現実世界にあるのは「先見性」だけだ。
「先見性」を持つのに才能はいらない。
行動するかしないか、それだけだ。
何回打席に立とうが、一回でも当たりを打てば、「先見性」になる。
とにかく「打席に立つ」こと。
「全振り」するのは、ボールがそのコースにくると確信できてからでも遅くない。
全力でダッシュするタイミングを見極める「感度」は必要だけど、そのカンは経験で伸ばせる。
「先見性がある」と言われる人は、「未来が読める」のではない。
たくさんの波に賭けていて、それらの予兆に敏感で、かつ波が来たらすぐに全力で乗るための体勢ができている。そんな人のことだと思う。
やっぱり先見性がほしい。