とても個人的に「才能」について考える

若い時にはずっと音楽をやっていた。高校卒業後に楽器の専門学校に行き、それから就職もせずにバイトをしながら音楽活動の日々だったので、それなりに人生を賭けて音楽をやっていた20代だった。

結果的に「音楽でメシを食う」という願望は叶わなかった。挫折して地元に戻り、就職してその後結婚して、今に至る。こうやって書くととても簡単な人生だけど、まあいろいろあった。

なぜ、上手くいかなかったのか? それは今でもときどき考える。「才能がなかったから」と片付けるのは簡単だ。実際に「音楽の才能」は足りなかったと思っているし、それが成功できなかった主な要因だったと理解している。

「才能」とは何だろう? 才能についてその成り立ちや効力をよく考えてみると、今まで少し思い違い(理解不足)をしていたことにも気づく。

生まれつきの素質。遺伝的な傾向。それが「才能」の正体であるのは確かだ。生まれついたものではない素質もあるかもしれないが。それにしても「そもそもの土台が違う」というのは大きい。残酷だけどそれが現実だ。

しかし、「素質や才能があるとなぜ有利なのか」という点にまで踏みこんで考えてみると、わりと単純なことに気づく。

才能=学習効率

才能や素質というのは、もともと備わっている力ではないと思う。「もともと」というのがどの時点から始まっているのか検証はできない。だけれど、いくら豊かな才能があっても、学習する機会がなければ才能は開花しない。

ギターの才能がある人は、生まれたときから上手に弾けるわけではなくて(当たり前だ)スタートは他の人と同じ。そこからの「伸び率」が高い人。
才能とは学習効率と言い換えられる。それがぼくの考えだ。
同じインプット(練習)をしていても、アウトプット(得られる結果)が多い。それが才能の効力。しかもその差はどんどん開いていく。

練習時間×才能=結果

学習効率の違いはどこから来るのかと考えると、「配分の違い」だと気づく。

人間のリソース(資源)の総量は変わらない。音楽の才能があるAさんと才能がないBさんを比べてリソースの絶対量はさほど変わらない。せいぜい100と110とか120くらいの差だろう。
では、何によって差が開くかというと、配分の割合だ。これが今回の話の結論。

才能がない(とされている)人は、頑張っているように見えて、実はリソースの多くを主目的とは違う場所に使っているのだと思う。

ギターの才能なら、同じ時間の練習をしても結果に差が出るのはなぜかというと、身体能力的なものもあるけど、リソース配分の問題が大きい。

なかなか上手くならない人は、リソースが別の方向に向かっていて、それは「自分」なんだと思う。つまり自分を気持ちよくさせる方向に働くか、他の人を喜ばせるために動いているか、という向けるエネルギーの配分の違いが結果に差が出る原因だと思う。

「自分」が入り込みすぎると学習効率が落ちる。

忘我の境地に立って目的までの最短距離をいける人がいわゆる「才能」なんだと思う。

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