2023年12月21日(木)

博論審査会に向けて

今月の頭に博士論文を提出してからというもの、タスクをろくに進めず、論文を読んでばかりいた。新しい情報を取り込むのは楽しいが、それだけでは研究者としてやっていけないので、そろそろタスクと向き合おうか。とりあえずは来月の審査会に向けて、発表スライドを準備しなくてはいけない。100ページほどある博士論文の内容を口頭発表の形にまとめるのは難しい。クリスマスまでには一旦、全体像を完成させたい。そしてできれば、年末年始はのんびり過ごしたいものである。

SciRateやDMRG preprint

博論の執筆に集中していた1、2カ月ほどの間は、arXivで更新された論文をチェックできていなかった。さすがに2か月分のarXivをさかのぼるのは骨が折れるので、SciRateで上位に入っていた論文の内、気になるものだけに目を通した。

SciRateはドイツのEisertグループに滞在しているときに教えてもらったサイトだ。arXivにアップロードされた論文が利用者によってScite!(いいねみたいな)されることによって論文の注目度が数値化される。期間ごとのランキングが確認できるので、最近の論文をチェックするのにとても便利だ。ただ、利用者の研究分野が量子情報に偏っていて、量子情報分野に関しては精度が高いのだが、物性など他の分野に関しては微妙な感じだ。物性の人も利用するようになると、もっと便利になりそうなのに。

あと私の専門分野の関連だと、西野先生のDMRG preprintも論文チェックに役立った。

論文をチェックするにしても今の時代は色々なサイトがあって便利である。

最近読んだ論文紹介

最近読んだ論文の中で特に面白かったのは、Fawziらによる"Certified algorithms for equilibrium states of local quantum Hamiltonians"というタイトルの論文だ。

この論文では、有限温度の量子多体系における局所物理量を計算するアルゴリズムを解析的に与えている。量子力学のoperator algebraic formulationを用いることで、並進対称な系の熱力学極限を直接扱っている。量子多体系の平衡状態は、

$$
\mathrm{Tr}(\rho H) - T ~ S(\rho)
$$

を最小にする状態として定義される。ここで$${H}$$は系のハミルトニアン、$${T}$$は温度、$${S(\rho)}$$は量子状態$${\rho}$$のvon Neumannエントロピーである。有限系ではこれは一意にGibbs状態

$$
\rho_\mathrm{G}(T) = \frac{e^{-H/T}}{Z(T)}
$$

に定まるが、熱力学極限では一意に定まるとは限らないらしい。そして、平衡状態の任意性は、相転移における自発的対称性の破れと関係しているらしい。(5年も有限温度の研究をしていたのに、そんなことも知らなかった。)熱力学極限を直接扱うための、量子力学のoperator algebraic formulationについては以下の教科書が引用されていた。

(普通にpdfをダウンロードできたので、この際勉強してみようかな。)平衡状態の任意性に合わせて、取りうる局所物理量の値にも幅が出てくる。Fawziらのアルゴリズムは、ある極限において、この幅の最小値と最大値を厳密に与える。このアルゴリズムは基底状態$${T=0}$$の場合にも適用できる。Bauschらによる先行研究では、基底状態において局所物理量を計算することは決定不能であると証明されている。

(Nature Communicationsから出版されているのに、この結果も知らなかった。勉強不足である。)一見、Fawziらのアルゴリズムは先行研究と矛盾するように思えるが、これはBauschらの先行研究においては有限系で局所物理量を計算した後に熱力学極限を取っていることが原因らしい。おそらく、境界条件の不定性によって局所物理量が一意ではなくなり、決定不能になってしまうのだと思われる。Fawziらの論文では熱力学極限を直接扱っているため、境界条件の不定性は局所物理量の幅に置き換えられ、その幅はアルゴリズムによって求めることができるようになった。つまり、決定可能になったというわけである。ところで、物性物理における有名な決定不能問題として、spectral gapが空いているかどうかというものがある。1次元と2次元の並進対称な場合において、以下の論文で証明されている。

Fawziらの結果を踏まえると、有限温度の局所物理量からはspectral gapは推定できないということになる。実際、私のボスに尋ねてみたところ、spectral gapは普通、相関長の逆数として計算するらしい。相関長を計算するには長距離の相関を計算する必要があって、それは局所的ではないということだった。物理系の計算複雑性に関する言及は、それ単体では意味が希薄であるので、物理的直観と照らし合わせることが大切だと思う。

Fawziらのアルゴリズムは、1次元空間の全温度領域と2次元以上の高次元空間の高温領域において早く収束する。この状況では相転移が起こらないため平衡状態が一意になっている。さらには、分配関数を計算する多項式時間の古典アルゴリズムが存在することが証明されている。

Fawziらのアルゴリズムが早く収束する場合においても実用的ではないことは、数値計算結果から見て取れる。1次元横磁場イジング模型に適用した結果は大きな誤差を孕んでいた。というより、厳密な値に収束するような計算を実行するのは難しいのだろう。しかしながら、こういった解析的な結果メインの論文で実際にアルゴリズムを実装していることは珍しいので、とても興味深い挑戦だと思う。

Fawziらの論文のような量子情報寄りの解析的な有限温度の発展と、物性寄りの実用的なアルゴリズムの開発は独立に進んでいるように感じる。両方の知見が合わされば、難しい問題、例えば2次元系の低温などに対して有効なアプローチが生まれないかなと妄想していたり。

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