ボルタンスキー展と順路の話

もう二ヶ月くらい前の話だけど、国立新美術館にボルタンスキー展を観に行った。
「Lifetime」と名付けられた展覧会には、彼の昔の写真、心臓の鼓動、生きた時間を表すタイマーなどが展示されており、
74歳にもなって未だに創作を続ける彼の「Lifetime」
そして自分の「Lifetime」だとか、一緒に行った友達の「Lifetime」だとか、そういったものを、
深く考えるきっかけになった。
他にも多くの発見があったし、展示のスタイリッシュかつ摩訶不思議な魅力を、
多くの人に勧めたいんだけど、今回話したいのはボルタンスキー展の「順路」の話だ。

ボルタンスキー展にはキャプションがない。
キャプションってのは、展示の横にある作品の説明文みたいなやつだ。
タイトルや、作られた年や、製造法が書かれた小さい紙だ。

その代わりに、来た人には作品の細かな情報が書かれた、新聞のような作品リストを手渡される。
展覧会の地図も一緒についていて、作品に番号が振られている。
その番号で作品リストの中を参照すれば、その作品の情報を読むことができる。

ただ、スーパーめんどくさいことに、(この展覧会観に行った人ほとんどが言っていた感想だが)
その番号は全くもってバラバラで、作品リストがめちゃめちゃ読みにくい。
入り口の作品こそ「1」の欄に書いてあるけど、そこからは番号がランダムに散らかされている。
突然「42」が来たり、「23」が来たり、(ピンクサロンにフリー指名で入った時のようだ)
意図的にシャッフルされているとしか思えない番号配列が続く。

同じように悩みながら、展覧会を歩いた、人のブログを貼っておく。
https://blog.goo.ne.jp/k-caravaggio/e/b690fa0fd04a0c442fffb4da82c801ae

この人も言ってるけど、会場内部はとても暗い。
地図を読むのも一苦労なのに、バラバラの数字を、作品リストの中から探す作業は苦行だ。
しかも、会場内をどう回っていいかが分かりにくい。
展覧会は、一本道になっておらず、来場者はどでかい空間の中をキョロキョロ彷徨うこととなる。

「ルート」がないってのは辛い。「自由に観てください」ってのは難しいもんだ。
俺は映画が好きだけど、映画のいいところは余計な思考を停止できるところだ。
ポップコーンとコーヒーだけ買って、映画館に入ってしまえば、やることは一つしかない。
座って映画を観るだけ。
それ以外の自由が奪われているからこそ、没頭できる幸せがある。

そんな訳で、ギョロッと作品リストを見回しながら、館内を彷徨い続ける中、
「こちらにお進みください」と美術館の人に言われた瞬間は、ある種の解放感があった。
「そうかこっちに進めばいいのか!」
「こっちから観るのが最も最善の道なのか!」
彷徨い続ける自由から、解放された喜びがあったのを覚えている。

帰って読んだ記事に、ボルタンスキーの意図が載っていた。
読んで驚く。

「展覧会全体を1つの作品のように見ていただいて、その後にお配りしている新聞を見て各作品の解説をお読みいただけたらと思います。まず展覧会を1つの作品として見て、そのなかにある詩や自分自身の思い、そこから出てくる哲学的な考察に身を任せていただきたいと思っています」
https://www.cinra.net/report/201906-christianboltanski

なるほど、あれを地図として使うのではなく、その場で読むのではなく、
終わってからにとっておき、
その場は、ただただ暗い会場内を彷徨うのが正解だったのか。
いや、「正解」って言葉もここでは違っていて、「そういう手もあったのか」というべきか。

作品リストの入り口と出口の作品だけ、番号が配列通りだった意味が分かる。

何事も「順路」がないってのは難しい。辛い。
「Lifetime」は一生。色んな事物に出会い、色んな感情が動く。
生まれることと死ぬことだけは誰もが同じだけど、後はバラバラ。

「こちらにお進みください」がものすごくありがたく聞こえる時もあるし、
反対に、彷徨い続けたからこそ得たものも沢山ある。

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