30歳、隠居生活 その10 倉庫編 仕事を知る
最初の開発現場での生活は、こうして1年と半年で終わりを迎えた。
長過ぎた1年6ヶ月であった。
新年明けてすぐは案件の募集が少なかったのか、数ヶ月の社内ニート期間があったり、
短期でPCの初期設定の現場に2ヶ月行ったりとフラフラさせられていた。
特定派遣の形態で雇われているため、社内ニートをしていても私に金は入るが、全額が会社の持ち出しになる。
役員の先輩も私の扱いに大分困っていたようで、相当の苦心が伺えた。
そんな中、とある現場の案件と縁があったのである。
場所は倉庫内、業務は払出から機器の設定、そして出庫まで。
IT系業務というよりかは、完全に倉庫作業であった。昨年まで開発現場、今年は段ボールに物を包んで発送である。
仕事はおよそSEらしからぬ内容であったが、私の関心事はただ一点、勤めを果たせるかどうかだけであった。
いらぬ不安は初日で消し飛んだ。というか、不安などしている暇がなかったというのが正しいだろう。
現場のリーダー役の説明は明確で具体的で隙がない。
仕事をする上で必要な範囲では整理整頓が行き届いており、作業は部分毎に丁寧に切り分けられいる。
初日の私でもやるべきことがハッキリと理解することができたと同時に、やるべき物量は中々に多かった。
シンプルな仕事ながら、その日中にやらなければいけない作業工程は多岐に渡っていたが、
然程の苦労もなく成果物が出せたのは、作業の一連の流れが全て巧妙に標準化されており、
どこをどうやって作業をし、何を持って完了とするのか明白であったからだ。
機器の払出、設定の仕方、チェックシートの使い方、作業証跡の残し方、出庫、
最初は切り取った部分を任され、そこに慣れたらその前後に必要な作業をまた任される。
始まりから終わりまでの作業を完遂できるようになるまで、ただの1週間もかからなかった。
分からぬことがあって声掛けしても、誰であってもこれはこうであるとハッキリ同じ答えが返ってくる。
キチッと全員が同じ方向を向いて仕事をしているのが目に見えて確認することができた。
なるほど活気のあるいい職場ではないか、俄然やる気が湧いてきた。
リーダーは私の様子を見、定型よりの業務であれば問題なしと判断したらしい。
数は多いが毎日決まった形で出す必要のある仕事の担当として私を任命した。
社会人になって仕事をするようになってから、部分毎の作業をしたことはあっても、
一連の流れの完了までを請け負う担当として、初めて責任を感じた瞬間であった。
便宜上、担当するこの一連の仕事をA案件と書くことにする。
担当と言うのは慣れてくれば全く楽しいもので、A案件はすぐに私のいい遊び場となった。
自分一人で完結できる範囲が広いので、色々と勝手が効くのである。
例えば、遠方への出荷は到着が一日遅れるため、発送先が遠方に当たるかどうかの確認が必要であり、私はこれが面倒だった。
依頼分は余裕を持って出庫したいため、2営業日前には仕上がっていることとあったが、
私は更に早めてこれを3営業日前には全て仕上がっているようにしたのである。
これで発送先を考慮に入れる時間が0秒となった。
更にいいことには、1日の余裕が増えたことでトラブルや急な仕事が入っても余裕を持って対応できた。
空いた時間も出てきたので、そういう日にはExcel業務を簡単にするための関数表など組んだりもしていた。
最初は力いっぱいでなんとかやっていた作業を、6割の力でやれるようになっていた。
後に、A案件と近い形の定型のB案件の担当も追加されたが、すっかり慣れていた私はなんなくこなしていたのである。
通常業務に至っては、全く快調であった。
しかし、仕事量はこちらで決められるものではない。依頼の数と締切の短さに大いに苦しめられることがあった。
A案件は、特定の月だけ普段の3倍の量が来る。これが非常に厳しかった。
残業に休日出勤も入りなんとかなんとかやり遂げた。
この案件の担当は、この時期は必ずそうなるとは事前に聞いていたが、次はもっと楽にやりたい。
残業はある程度已む無しとしても、休日出勤までは行かぬように抑えたい。
なんとかならぬものだろうか、悩み抜いた挙げ句、私は一計を案じた。
まず、依頼自体は先月から詳細が出るため、出庫の必要な物量が現場に分かるようにデカデカと印刷し、
これこれこのような計画でやるため、既に受け持っている案件この他一切のことは手伝えぬと宣伝をした。
これは、渦中においても声を掛けられれば手伝いに出ないということは実際には難しいからである。
事前に物量を伝えておき、そもそも声がかかり難い状態を作るのが良いと思った。
次に、この計画でやるためには、こちらに手伝いの人員がこのぐらい必要であると明示した。
倉庫には、流動して借りられる人手がおり、特定の部分だけ任せられるような環境になっていたので、
早い段階から状況を説明し、この期間にこれぐらいを完了させるため人員をお借りしたいと訴えたのである。
これは少々図々しいかなと考えたが、このように予定がきちんと立っているなら問題ない、この通りやるようにして欲しい、
と却って喜ばれた。
事前に良く準備していたため、3倍量あっても後はやるだけの姿勢になった。自分でする分は特に問題の起きようもない。
そのため、リストの順番と払出する機器の順番が合っていなくてやりにくい、などの協力者の細かなフォローにも時間を充てた。
毎日の進捗分を全員に見えるように印刷して公開し、定例以外でも毎日律儀に報告を行った。
それぞれは単純な工夫であるが、これらが功を奏し、思ったように仕事は進んでいった。
進捗は上々であった。
途中、うっかり終電で乗越をしてしまうなど、仕事外でのトラブルもあったが、無事に最後の出庫を終えた。
休日出勤なしでこれを乗り切ったのは初だと言う。我ながらうまくやったものだと思う。
休日出勤をしなかったことそのものよりも、頭を使って考え、工夫をして試し、結果に繋がったのが何より嬉しかった。
入所から約7ヶ月目のことであった。
しかし、現場に入ってこのくらいになると、良い点は兎も角、悪い点なども見えてくるものである。
ここまでは調子の良いところばかりを書いていたが、やはり苦しいことも多かった。
殊更辛かったのが、残業が多くなることであった。人手に対して仕事量の可変が大きくためやむを得ないのだが、
現場も遠く移動に時間がかかるため、帰りはいつも22時過ぎ、そこから料理して飯を食うなどすると寝るのはもっと遅くなる。
更には、残業の多いことにイライラしてゲームなど初めると、
のめり込んでしまって深夜まで及んでしまい、翌日に寝不足で出てしまうなどしょっちゅうであった。
毎月、心が癒えるのは残業で貯まる貯金額を眺めているときだけであった。それでも割に合うものではないとも思っていた。
他にも、技術で身につくものがないというのも大きな問題であった。
大体は倉庫作業であるし、機器に設定を流すと行っても中の設計が分かるわけでもないので、
仕事をしていても得られる知識は段ボールの組み方くらいのものであった。(これはこれで大いに役に立ったのだが)
技術屋として今後も稼いでいくつもりの人間としては、このような現場に長く勤めているほど先がないのだ。
特に、もっと稼いでやるぞと、その気がある同じ職場のものなどは、明確に早くこの現場を出られるように、自社の人間に掛け合っているようだった。
確かに、私であっても、6ヶ月もいれば仕事は大体覚えてしまってできる工夫も尽きたし、あとは退屈か繁忙さに耐えるだけの
毎日であったから、以前の現場に比べればマシと言っても、相当低次元のマシであるなという認識だった。
特に、この件に関しては後の自社での面談で、何か技術で身につけられたものはないのかと問われ閉口した。
払出と段ボール詰め、出庫などは1000回以上こなしましたので、立派な倉庫作業員になれますよ、と真顔で答えておけば良かったと後悔している。
ここに入所した時点で技術なんぞ身に付かんことは分かっているだろうに、随分といじわるを言われたものである。
更には、この現場を出る時になって教えてもらった現場のお作法の問題があった。
私は結局、入って9ヶ月でこの現場を出ることになるのだが、その原因がこのお作法にあった。
その時のことをお話しよう。
A案件の嵐が過ぎ去って8ヶ月目に入り、平常業務に戻り調子良く過ごしていたのであるが、
ある日、件の役員の先輩から連絡があり、倉庫現場での勤務は来月いっぱいまでとなった、という。
私としては寝耳に水の話で、一体何があったのか分からなかった。
本社に戻って話を聞いてみるが、疑問は晴れるどころか、半ば叱責に近い内容であった。
全く釈然としない気持ちでいたのであるが、数日経った頃にようやく理由が分かった。
どうやら、契約更新にあたり、私の単価上昇を要求したようなのだが、突っ撥ねられたようなのだ。
一般には、ある程度の期間雇っていたら、最初に雇った時点より仕事ができるようになっているだろうし、
多少の賃金アップを行うのが平常なようなのだが、私の場合にはそれがうまくいかなかったらしい。
ようやく話が飲み込めた。
ちょうどその時期にあった昇給査定においても、客先からの単価が上がらない以上、プラス評価はできないという話であった。
聞いた当時には、まぁ業務をなんとかこなしていただけなので別に問題ないか、とここは呑気に聞いていた。
認識が変わったのはその後である。
現場で私にこそりと耳打ちを受けたことには、この現場では単価上昇を受けないんだ、と。
出せる金額が決まっていて、単価上昇の話が来たら別に新しい人間を雇うだけだと言う。そういうお作法なのだと。
その度に毎回新人教育をするリーダーの心労が察せられた。が、同時に強い憤りも感じた。
現場がその通りなのだとしたら、私がどれだけ現場において骨を折ったとしても、自社からの評価など絶対に上がらぬ道理ではないか。
私が現場を離れてから、中の話など少し聞くことがあったが、
私がやっていた作業を結局2人がかりで担当することになったと聞き、歯噛みしたものである。
2人も担当に用意するくらいなら、私の賃上げを受けてくれても良かったではないか!
まぁ、そこは現場の決定であり、私の決めるところではないことは分かっていたが、なんともやりきれぬ思いが残った。
このまま派遣SEとして仕事をしていくことに、初めて疑問を覚えた瞬間であった。
兎にも角にも、こうして、私の倉庫作業は終わった。入場してから9ヶ月目のことであった。
この現場で得られたものは実に多かった。
私はこの現場で、仕事のやり方というものを学んだ。
できない人間にもそれをできるようにさせ、チーム全体でより良いものを出す。
そのために必要な事を考えて実行する、これが仕事であると、現場を先生として学んだのである。
これは今でも、私の仕事における自信に繋がっている。
また、ここまでついぞ書きそびれてしまったが、この現場のリーダーには大変助けられた。
仕事の仕方も全く知らぬ私を、見事にこの現場で働ける戦士として鍛えてくれた手腕と度量に本当に感謝している。
どんなに辛い時期、辛い環境であっても、この人がいるから自分も頑張れると背中を追える、誠のリーダーであった。
彼がいなければこの現場でここまで踏ん張れなかったろうと思う。このようなリーダーの下で仕事ができたことを幸運に思っている。
本人は、物価の安い海外を拠点とし生活をしたい旨の希望のため努力をしていると聞いたので、説に願いが叶うことを祈っている。
余談ではあるが、この現場では年の近い男連中が多く、皆、案件は違うが似たような作業をしているため
業務上のコミュニケーションに趣味の話を混ぜられるというオマケが付いてきた。
ただの作業であっても、なかなか気の合う連中とやっているとどうにも楽しいものである。
厳しい環境での仕事ではあったが、不思議と閉塞感は感じなかったのはこのためだろうか。
倉庫の現場を出るときの私は、仕事への自信に溢れていた。
しかし、次の現場に到着したとき、その自信は1日も経たずに崩れ去ることになるのであるが。
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