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なぜ千尋は豚の中に両親がいないことを見分けられたのか?−「千と千尋の神隠し」にみる自立の心理臨床学−

<千尋は豚の中に両親がいないことをどうして見分けることができたの?>

 映画のクライマックスで、元の世界に戻れるかがかかった問いに自信を持って答えた千尋。意地悪に見えた湯屋の面々も千尋の正解を祝福する印象的なシーンです。それにしても、千尋はなぜあの問いに答えることができたのでしょうか?

<千と千尋のリアルさ>

 「千と千尋の神隠し」はジブリ作品の中でも人気の高い作品です。主人公の千尋はジブリ作品に見られる真っ直ぐで正しい主人公とは一線を画す、冴えない顔をした都会っ子です。そして、千尋の家族もとてもリアルです。これは「となりのトトロ」と比べればわかりやすいでしょう。どちらも冒頭から引っ越しと言う別離のテーマが描かれているのですが、トトロの姉妹は子どもの空想や好奇心を大切にする大人たちに囲まれ、引っ越しを存分に楽しんでいました。「トトロ」は基本的なこころの栄養をたくさん与えられた姉妹が、母の病気と引越しという危機を乗り越えていく物語で、登場してくる「おばけ」達は一貫して手助けしてくれる存在でした。
 
 しかし、「千と千尋」では簡単ではありません。千尋は見るからに引っ越しに不満があるのですが、両親はその気持ちに配慮する気配もなく物語が始まります。湯屋の世界に迷い込むときにも、不安で体を寄せる千尋に母親は「そんなにくっつかないで。歩きにくいわ」と突き放します。私はこれをジブリ史上に残る“塩対応”と呼んでいます。千尋の制止を振り切って、店の食べ物を勝手に食べ始める父親もいわゆる“俗物”です。しかし、どちらも悪人というわけではなく、むしろこれがリアルな大人の姿ではないでしょうか?大人達も子どもたちを省みるゆとりがなく、未熟だったり、傷ついている。自分の都合や欲望で精一杯。そんな中で成長し、生き抜いていかなければならない今の子どもたち。理想郷に見えるトトロの世界よりも「千と千尋」の世界こそ私たちにとってリアルで身近なのです。

<登場人物は千尋のこころの表れ>

 では、異界である湯屋の世界をどう考えればいいでしょう?臨床心理学の祖の一つであるフロイトの精神分析の視点で見ると、湯屋の世界は千尋の「夢」(夜見る夢)として読み解くことができます。わたしたちの夢の中には、怖い怪獣、魔物、手助けする人物、得体のしれないものなどさまざまなものが出てきます。しかし、よく考えてみると、夢は見ている人のこころが作り出しているので、どんなに意味不明でも、登場する人物や設定はその人のこころの中が現れていると考えることができます。怖い怪獣は、その人のこころの中の荒々しい部分のメタファーであり、「怖い」という気持ちの反映、と考えることができます。つまり、湯屋の登場人物はすべて千尋自身のこころにルーツがあり、それらが相互作用してあの物語を構成しているのです。そして、湯屋の世界の八百万の神々のように、個人の体験を超えた普遍的な無意識(ユング)と言われる領域も反映されていると考えられます。

<千尋の心理的危機>

 転校という別離をきっかけに、無気力な表情をしている千尋は、実は大きな心理的危機にあります。登場人物が千尋のこころの反映だとすると「役に立たないものはいらない」と厳しい現実を突きつける理不尽な親や社会(=湯婆婆)への敵意、カオナシが表わす寂しさと思い通りにしたいどん欲な欲望、坊のようにずっと赤ちゃんのように甘え、暴れていたい気持ち、などのさまざまな思いが千尋の中には渦巻いていたのでしょう。

 特に重要人物の湯婆婆はまさに「塩対応」で厳しく、銭婆婆は対照的に優しくて保護的でした。「銭・湯」で一つの言葉と読み解けば、この双子の婆婆はこころの中の”よい”親イメージと”悪い”親イメージの部分であり、合わせて1人なのです。この婆婆達と出会い、千尋は物事のよい面と悪い面が分かち難く存在していることを直視していきます。つまり千尋は自分のこころの強烈な部分、矛盾した自己部分と戦っていたのです。

 湯婆婆に姓と名前を奪われ、千尋は「千」と呼ばれるようになります。姓名は人の歴史や親の期待など「自分の生まれた意味」や「自分らしさ」を表し、それを失うことは自己の危機を意味します。心理的危機とは具体的には「自分は何者で、何をしたいのか」という目的や意味という大事なことを忘れる、見失うと言う危機なのです。「名前」は自己(self)そのものを表すと言えましょう。この「名前」を守り、取り戻す戦いは、他者に合わせすぎて自己を見失うか、自己の欲望に飲み込まれて他者や社会を見失うか、というリスクの狭間で自分を確立するという困難な道のりになります。

<千尋の心理的自立>

 親の都合での引っ越しに千尋にはどこかで「親なんか消えちゃえ」と言う気持ちもあったでしょう。そして、両親が豚になったところで戦いは始まります。心理的自立は依存と表裏で、自分が依存していることを自覚することができて、はじめて自立の道が開けます。カオナシの誘惑をはねつけ、「ハクを(両親を)助けたい」と言い切る時、千尋の意志が私たちにも伝わってきます。自分にとって何が大切なのかということから目をそらさず、自らの望みを発見することによって千尋は一歩自立したのです。千尋の頬が引き締まり、目は凛々しく輝きだします。

 こうして、今まで依存していたハクや両親を救い出すため、千尋は困難な道を自らの意志で進んでいきます。「自立」はただ我が道を行くことではなく、不完全で悪いところがある相手を丸ごと受け入れ、その人を思いやることなのです。作中の釜爺の言葉を借りれば、それは「愛だ、愛。」ということになりましょう。これは心理臨床の視点では、前述した「よい」親像と「悪い」親像の統合であり、同一性の発見ということになります。この感覚は実はとても大事な心的プロセスであり、悪い対象がよい部分を含み込んでいること、そして、よい対象にも悪い成分があることを発見することです。それは、現実を見ていく上で重要な観点となります。さらに、それは自己の良い部分と悪い部分が同時に存在していることの自覚にもつながっていくのです。それは物事や事実を正確に、解像度が高く見ていくことであり、単純なよいー悪いを超えた奥行きのある視点の獲得なのです。

 こうして、成長した千尋は湯婆婆に「おせわになりました!」と感謝の言葉を伝えます。これは“塩対応”で“俗物”な両親像をこころから受け入れ、憎しみや不満を超えて、親への愛情と感謝を感じている表れです。こうして、2つの側面を直視した上で「両親」=「世界」を愛することを選び取った千尋にとって、豚の中から両親を見分けることは簡単なことだったというわけです。

<自立によって成し遂げられること>

 注目すべき点は、自立の過程で千尋は両親のみならず、ハク、カオナシ、坊、そして湯婆婆にも影響を与え、彼らを助ける存在になっていることです。これは私の推測ですが、千尋の両親はなんらかの傷つきや喪失体験を経てきたようです。千尋のこの成長は、いつしか母を助け、父の生きがいとなり、この家族の希望となってこの後も灯り続けることを予感させます。

 臨床の現場では、千尋よりももっと過酷な状況、周囲からの塩対応どころか“毒対応“の中で心理的危機に陥っている人もいます。千尋のようにうまくいかず、社会や現実からの圧力に屈しそうになったり、自分の欲望のなかに引きこもってしまうこともあります。

 「千と千尋の神隠し」は、そんな私たちに自立した個になることの困難さと大切さを伝えてくれます。自立することは、自分が不完全であることを認め、誰かのために働き、誰かを愛することができるようになることです。
 これは千尋の年に限らず、現代の私たち共通のテーマであり、その「心理的自立」の姿を千尋は見せてくれているのです。

本文は「心理臨床の広場」のジブリで学ぶ心理臨床学特集を改稿したものです。


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