見出し画像

離婚騒動の仲介役

小学校5.6年生の頃、両親の離婚危機を回避したお話。

ある日から父が家に帰ってこなくなった。

最初母からは出張なんじゃないと説明を受けたが、数日、1週間経てど帰ってこない。

もう一度母に問うと、どうやら家出したようで、連絡も繋がらない、父方の実家にも連絡してみたけど家を出たことや行方はわからないという。

母方の祖母(母にとって実の母)にも相談し、警察へ捜索願を出すだとか、もう結婚生活無理かもしれないという大人の話が進んでいたようだ。

息子たち(自分含め弟2人)の知らない間に家族が崩壊しつつあった。

一番危機を感じた言葉は「お父さんのところ、お母さんのところ、どちらに行くかあんたが選びなさい」ということだった。

どちらを選んでも、不幸な選択肢だと直感的にわかった。

母は半ば父には諦めており、父は一向に帰ってこず、離れ離れになるかもしれない弟たちは、まだこの話を知らない。

誰一人家族が欠けること、離れ離れになるのはとにかく嫌だった。

「たとえ意見が違くて対立したとしても、対話をしないのは良くない」という価値観は今でもここに起因している。

両親を説得する使命感が湧いてきて、とにかく父と話せないかと母の携帯を借りて何度も何度も電話をした。

何度も電話するからか、父は折れたのか電話に出てくれた。出てくれた父は無言のままだった。

はじめは、なんで家を出たのかとかそんなことを聞いてたと思うが、次第に感情的になり帰ってきて欲しい、一緒に暮らしたいと泣きながら懇願したことは覚えている。隣で母も泣いていた。

父「ごめんね」
ぼく「・・・帰ってきてね」

その数日後、父が帰ってきた。
その後両親がどう折り合いをつけたかわからない。

今でも両親は一緒に住んでおり、家族は誰も欠けていない。当時の自分が説得を諦めていたらまた違った未来になっていたかもしれない。

個人の合理性とか理屈を考えたら、離婚は真っ当な答えなんだ思う。(当時はそこまで考えが及ばなかったが)ただ、個人の合理性だけで話をつけちゃいけないこともあるなと、当時の「嫌だ」という直感でわかった。

なんで「嫌だ」ったかの説明はかなり複雑で、いろんな関係者、未来の自分、過去の自分が僕のもとにやってきて色々教えてくれて(実際のことではなく、頭の中でぐわんぐわん処理した妄想や夢)、一言で表せないけど、一言で表すと「嫌だ」だった。

こんなに感情を露わにする少年期ではなかったので、強烈な体験だったのは間違いない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?