戦うべき時

再び「怒るなかれ、争うなかれ」について。



仏教では、怒るなかれ、争うなかれと教える。怒りは一時的には感情的発散になっても、後になれば結局自分の損になるというのだ。



これは98%正しい。しかし2%は間違っている。



昨日、私のクリニックに30歳の若者が、晴れ晴れとした顔で私に御礼が言いたいと言ってやってきた。うれしいことに、私が大好きな宮寒梅の純米大吟醸を持ってきてくれた。



この人が私のクリニックを初診したのは、去年の10月だった。来た時は意気消沈して、夜も眠れない、心臓がドキドキして苦しい、冷や汗が出る、居ても立っても居られないと訴えた。



話をよく訊いてみると、彼は職場で追い出しにあっていたのだ。たまたま彼の会社である物品が紛失した。それは彼の責任でもなんでも無かったはずなのだが、会社はそれを機に彼を追い出そうとした。現場から外し、一切仕事を与えず、誰も口を利こうともしない。正社員を無理矢理追い出す時に会社がよく使う手である。



結局それを数ヶ月続けられたあげく、彼は神経衰弱になってしまい、職場に行こうとすると動悸がし、冷や汗がし、精神が動揺する、しかし休もうとすると欠勤になるという板挟みになった。まさに会社の思うつぼだ。



そういう人に精神安定剤を出し、抗うつ剤を出すのは普通の心療内科のやることだ。私はこれは会社の違法行為だと判断し、法テラスに相談に行かせた。しかし彼の収入が少ないので、法テラスでは労働基準局の方が良い、と言われた。それで今度は労働基準局に私の診断書を持って相談に行かせ、基準局が対応して斡旋となった。まず斡旋が決まった途端、彼の家に毎晩のように来ていた職場からの嫌がらせの電話がピタリと止まった。会社からは「労基署が何を言おうとびた一文出さないからな」と言われたそうだが、いざ斡旋の場に出てみると、「退職するなら40万出す」と言われたそうだ。その提案を持って彼は私のクリニックに駆け込んできて、先生どうしましょうと言うから、「職場とそこまで拗れた以上、後は幾らふんだくって辞めるかどうかなんだ。君の収入からすると40万はまあまあ妥当だ。それでいいにしておけ」とアドバイスした。



実はこの間、彼の実家の親が余計な口出しをしたというエピソードがあった。「どうせ辞めるなら立つ鳥跡を濁さず。余計なことはするな」と親が言ったというのだ。私はその話を聞いた時、彼の肩をぽんと叩いて、

「あのなあ、M君(患者に君づけもないものだが)。人生ってのは、戦わなきゃならない時は、戦うんだよ!」と叱咤した。



戦わなくてはならない時。それは大なるものが小なるものを力で踏み潰そうとする時だ。組織が個人を理不尽に押しつぶそうとする時だ。そういう時「怒りはよくない。争いは避けよ」という事にはならない。大きな力が理不尽にも小さなものを押しつぶそうとする時に、それに負けて逃げ出すと、人生負け癖が付く。M君の親のように「争うことなかれ、逃げるが勝ち」という人生観が出来上がる。それは卑怯だ。人間として、卑屈なのだ。



今のこの社会は、本人が本気で戦うと決めさえすれば、私のような医者もいる、弁護士もいる、労働基準監督署もあって労働基本法という法律もある。手を貸す人は、幾らでもいるのだ。だが一人が泣き寝入りをすれば、他も泣き寝入りをすることになる。自分さえ我慢すればと思うと、他人まで不幸に巻き込むことになる。権利というのは、戦わない者には得られない。これは人生の鉄則である。本来自分が正当に持っている権利を堂々と主張し、適切な方法で戦って勝つというのは、その人の人生において極めて重要な意味を持つ。その人の人間性の形成に関わる。



人生など言うものは無い。それは陽炎のようなものだ、苦しみも喜びも幻想に過ぎない、という仏教者が居る。しかし我々は、厳然としてこの世を生きている。それは永劫の時間に比べれば一瞬にも満たない時間かもしれないが、だが今、私やM君が生きてこの世に有り、彼が人生で苦しんだことは、陽炎でも幻想でも無い。厳然たる事実だ。生老病死は幻じゃ無い。幻じゃないからこそ、こんなに苦しいのだ。



無論私は人生何でもかんでも怒って争えと言っているのでは無い。大抵のことは、翌日になれば忘れてしまう。カッとなって手を振るえば、自分の負けだ。だがしかし、大きな力、とりわけ組織や集団が理不尽に自分を潰そうと向かってきた時は、人は戦わなくてはならない。そこで逃げてはいけない。そういう時に逃げるのは、賢明な人間でも悟った人間でもない。単なる卑怯な弱虫だ。



M君は戦って、正当に得るべき40万を手にし、次の就職先を見つけた。彼の顔が晴れ晴れとしていたのは、単に次の就職先が決まったからだけでは無い。戦うべき時に戦うべき相手と正当な方法で戦って、正当な勝利を得たからだ。尻尾を巻いて逃げなかったからだ。このことはきっと今後の彼の人生に大きな教訓となるだろう。



人生なんでもカッカと怒るのは損だから抑肝散を飲んだ方がいい。しかし本当に戦うべき時は、正面を向いて戦うのだ。人生は幻じゃ無い。

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