岩崎本舗の「波乱まんじゅう記」2

二代目社長(現相談役)が、お正月に母が作ってくれる角煮がとても美味しくて大好きだったことから生まれた角煮まんじゅう。

ここでしか知ることのできないストーリーを紹介していきますので、最後までお付き合いいただければ幸いです。


 二代目社長の岩﨑栄司は、1963年(昭和38年)1月。後に「三八豪雪」と呼ばれる記録的大雪の中、岩﨑家の第三子、待望の長男として生まれました。
 小さい頃から乗り物が好きで、手がかかる方ではなかったそうですが、初代社長が配達に出かける際に一緒に連れて行かないと駐車場に大の字になって寝転がって通せん坊し、連れて行くまで退かないというような頑固な一面もある子供だったそうです。

 それから元気にすくすくと育っていくのですが、何を隠そう栄司は頭が良い方ではありませんでした。
 中学ではあと五日休んだら留年というところまで来ていましたが、母が先生とかけ合い、何とか卒業することができました。

 しかし、その後せっかく入った高校も、中学と変わらず休みがちですぐに中退してしまいます。
見兼ねた父は、当時「とんな落ちこぼれでも卒業させる」と言われていた調理師専門学校へ栄司を行かせることにしました。
専門学校時代も相変わらず休みがちでしたが、補習を受けながらも何とか調理師免許を取得し卒業。
 
 卒業後は長崎を離れ、大阪の「サンリバー」をいうレストランへ就職しました。

「えっ!ホールですか!」 

 調理師の資格をもっているので調理場かと思いきやホール担当になった栄司。
 最初は嫌でしたが、接客をしていくうちに、目で見なくてもお客様が落としたものがフォークかスプーンか音で聞き分けてお持ちするなど、次第に接客の楽しさに目覚めていきます。

 それから半年後、念願だった調理場へ配属されるのですが、鍋洗いなどの単純作業が嫌になり四ヶ月で辞めて長崎へ帰ってきてしまいます。

 しばらくして、知人に紹介された東京の焼肉店「三幸園」に勤めることとなり、そこで後に妻となり、現在の岩崎本舗の専務でもある眞智子に出会います。。。


 三幸園では三年ほど勤めましたが、自分にだけ厳しい上司が嫌になり退職してしまいます。
 しかし、思い返すと、自分にだけ注意していたのは「それだけ期待してくれていた」と気付き、後日談ではありますが、岩崎本舗の社長に就任した後、3ヶ月ほど再修行に行ったそうです。



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