見出し画像

岩内町郷土館令和5年第三回企画展「岩内少年団下田豊松の功績」①Activist(行動する人)下田豊松伝説


下田喜久三(前列左から2人目)の(株)日本アスパラガス株式会社起業式


左端 下田豊松

ボーイスカウト日本連盟100周年+1を記念しての企画展です。大正時代、「岩内少年団」をいち早く創設、さらにボーイスカウトの世界大会に日本人として参加するため、開催国であった英国に渡航し、日本の少年団を世界中に知らしめた、下田豊松の功績を紹介しています。

ところが、この下田豊松について、よく知っているという方は町内でも少ないのです。

上の写真は、郷土館内にも常設展示されている、皆さんご存じの国産アスパラガスの生みの親、下田喜久三博士が「(株)日本アスパラガス」の会社を設立した時の記念写真です。この写真の中央は喜久三ですが、一番左端にに写っているのが、下田豊松。

実は喜久三博士の兄であり、アスパラガス実験農場の開設など、喜久三のアスパラガス研究の陰の協力者であり立役者でもあったのです。豊松は岩内の下田商店本店、倶知安支店の経営で、肥料や米穀取り扱いや運送業など手広く商いをしました。また少年団の創設はもちろん、公益事業や酪農開拓など、さまざまな分野で功績を残されています。

下田豊松の功績の資料を紐解くと、一体どこから手を付けていけばよいのか、正直迷ってしまいます。
まずは、一介の商人である豊松が、なぜ英国ロンドンに赴くことになったのか?


第一回世界ジャンボリーに赴いた豊松と小柴、そして船旅の途中で仲間に入れたリチャード少年
ロンドンにて同胞と。杉浦藤四郎は通訳をつとめた

1920(大正9)年。下田豊松は「ボーイスカウト世界大会および国際ジャンボリー」に参加するために、英国ロンドンに渡航します。

ロバート=ベーデン・パウエル ボーイスカウト運動創始者

そもそも「ボーイスカウト運動」とはいかなるものか?
1907(明治40)年、英国の退役軍人であり、英雄の称号を持つベーデン・パウエルが、キャンプや共同生活を通して、青少年の健全な育成をはかるための少年団(ボーイスカウト)を創設。その高い志や理念、手法は、英国から世界中に広がり、日本にも伝わってきます。
明治末期~大正時代にかけて、東京、静岡など各地で少年団が創設され、北海道では1915(大正4)年に旭川少年団が、1916(大正5)年に下田豊松により岩内少年団が発足。豊松が団長となり、当時の岩内尋常高等小学校男子500名が団員となりました。

第一回世界ジャンボリーの様子を、豊松が絵はがきにしたもの
ロンドン開催第一回世界ジャンボリーのプログラム。
パレードでは豊松ら日本人の参加が熱烈に歓迎された。

その「ボーイスカウト世界大会」が、初めてロンドンで開催されるというニュースを、下田豊松は「東京新聞」で知ります。そして、当時の日本国内では、この世界大会に日本として参加するという機運がまったくありませんでした。
豊松は、国際社会において、もはや先進国たる日本が、不参加であるということに、納得がいかなかったのではないでしょうか。それならばと、自分が出立することを決意します。同じ志をもった東京少年団の小柴博とともに、神戸を出航したのは1920(大正9年)5月19日のこと。およそ2か月の船旅を経て7月19日にロンドンに到着します。

ちなみにこの時、父親の下田仁三郎は病に伏していたのですが、豊松は母の許しを得て、面会せずに岩内を出発。弟の喜久三に「父が死の時はロンドンに打電せよ。家運が傾くとも我は関せず」と伝え、自分は決死の覚悟で出発すると宣言します。

第一回世界ジャンボリーの記念切手


岩内少年団の絵はがき。豊松はこの絵はがきをロンドンで各国の少年団に配った。

いったいなぜ、それほどまでの覚悟が必要だったのでしょうか?
 (つづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?