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岩内町郷土館令和5年第三回企画展「岩内少年団下田豊松の功績」②Activist(行動する人)下田豊松伝説


新渡戸稲造 1920(大正9)年、国際連盟が発足しロンドンに事務局が設置される。日本の代表としてロンドンに駐在していた新渡戸稲造は、ボーイスカウト世界大会のため訪英した下田豊松らをランチに招待。日本の教育水準の低さなどを説き、豊松らに多くの示唆、助言を与える。
豊松のパスポート。弟の喜久三がアスパラガス研究に渡欧する1923(大正12)年より三年早く、豊松は欧州各国をめぐっている。

経済的にも船での旅程にしても、日本からイギリスに行くことは、100年前の大正時代は、今よりはるかに大変な旅でした。今のお金に換算すると、一人約400万円ほどかかったのではないでしょうか。豊松はそのすべての経費を自費で賄い、足りない分は下田家より援助をしてもらったそうです。

英国に着いた豊松は、ボーイスカウトの創設者であり、世界の総長となったベーデン・パウエルに会い、日本の代表として親交を深めます。また、当時ロンドンに駐在していた新渡戸稲造と出会います。豊松の資料の中からは、彼らからの手紙も残されています。

横浜正金銀行ロンドン支店運動会に招待された豊松の様子と、新渡戸稲造からの葉書。

また、横浜正金銀行ロンドン支店、日本領事館、日本大使館などを訪れ、在ロンドン日本人同胞にも面会。この時に繋がった多くの人脈はのち、帰国後に豊松が日本の少年団組織を創設する時の、力強い支援者となります。


ロバート=ベーデン・パウエルから豊松への書簡。1922年、日本の皇太子殿下(のちの昭和天皇)が渡英され、ボーイスカウト運動のベーデン・パウエルに謁見された事が伝えられている。

ロンドンのボーイスカウト世界大会では、豊松ら三名の日本からの参加者に、世界中の参加者から歓声があがりました。
豊松がベーデン・パウエルの部屋に招かれた時、驚くほどの光景があったそうです。その部屋には、日本の乃木希典大将の肖像と、会津白虎隊の図が掲げられていました。豊松が「私達は英国のボーイスカウト精神を学びにやってきました」と言うと、ベーデン・パウエルは「ボーイスカウト運動は、日本文化である武士道を見本としています。あなた方の方が本場ではないか」と言ったそうです。ベーデン・パウエルは、過去に日本を訪れたこともあり、日本古来の精神文化に深く感銘を受けていたのです。

1922(大正11)年。『皇太子殿下御外遊記』(岩内町郷土館所蔵)。当時の皇太子殿下(昭和天皇)が、英国をはじめ、欧州各国を外遊した記録。旧岩内東小より寄贈された古書。


豊松が英国に旅した二年後、日本の皇太子殿下が、英国をはじめとする欧州各国を外遊されました。英国では、ボーイスカウト総長のベーデン・パウエルを引見し、その活動に興味を深められたといいます。その「御外遊記」の中には、ベーデン・パウエルのこのような言葉がありました。
「少年斥候隊(ボーイスカウト)の運動は、少年を軍人に仕立てる予備教育のように考えるものがあるけれども、これは甚だしい誤解であって、実は少年をして名誉と愛国との観念を信条化せしめ、精神、身体ともに強壮なる人間に仕上げようとするものである。したがって、その訓練のごときは日本式武士道の真髄を採ってこれを行うものである」
ベーデン・パウエルは日本の「武士道」が単なる軍人教育ではなく、青少年の育成に大いに意義のあるものと考えていました。

豊松は実は若い頃から教育、それも学校の教育だけではない「人間教育」といったものに関心を寄せていました。

それは幼い頃の自分自身の経験や、十六歳で早世した弟、下田成吉の思い出も、胸に刻まれていたからなのかもしれません。

ボーイスカウト運動は、国境を越え世界中に通用する、まさしく理想的な教育運動でした。
(③へつづく)

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