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大人になった僕たちはゼルダのためにリンクを操作する

人は誰しも「自分は特別だ」という感情を心の中に置いていると思う。

幼少期はそんなことを考えずとも毎日を過ごしていけるが、物心をついたその頃から、それぞれの環境の中で「一定の尺度」を与えられる。それに照らし合わせて「自分は一体なんなのか」はたまた「自分はそんな尺度におさまらないぞ」みたいなことを考えていく。そして無意識に何十年もそんなことを考えながら自分の尺度の形成、つまりは人格形成を受動的なり能動的に行っていくものだ。

しかし世の常として、一度社会にでると「自分はこう生きていくのだ」と(言語化せずとも)心に一度は置いたその尺度はだんだんと曲がっていってしまうのだと思う。おそらくその尺度というのは、自分自身の幸せの尺度でもあるのだろうが、他人との比較や自己評価と実績とのギャップで徐々に心をすり減らし、そして忘れていってしまう。幸せの尺度を他人との比較によって形成するようになってしまう。

人生には「現実を突きつけられる」イベントが多い。学校の成績や部活の成績、恋愛、受験、就職、会社員生活、家族。後付けでコンプレックスを嫌というほど打ち込まれてしまう。このイベントをほとんどパーフェクトに切り抜けられる人は少ないし、そつなくこなしすぎると「無個性なのではないか」と思ってしまう可能性すらある。

この過程で「人と違うこと」や「特別でありたい」という意識は拭い難いものになるのだと思う。

そのうち人生のライフイベントを迎える中で「これでよかったのだ」と人は思う。割り切って生きていくようになる。「こう生きたい」という未来への意思に対してでなく「こう生きてきた」という自分の過去を肯定し、今度はその延長にある「最良の選択肢」をどれだけ多く手にできるか、ということに腐心するようになる。

それが「大人になる」ということだと諭す人は多い。

でも本当にそうなのだろうか。大多数の人は心の中で「逆転」を願っているものではないのだろうか。過去の実績もなにもかも根底からひっくり返せる圧倒的に安心できる場所、有利な場所にいきたいと。はたまた「自分の眠った才能」がある日目覚めて生活が一変してしまうようなことだ。

理由はさまざま、逆転具合もさまざまだろうが「今の生活」が劇的に、もしくは比較的早いペースで良くなっていくことを心の中で願っているのも事実だろうし、それこそ、これまでの人生の延長ではない道に踏み出してリセットしてみたいと思っているのも事実なんだと思う。全く違う良さそうな未来の選択肢が広がっているかもしれないと考える。

この「逆転願望」に入り込む商売は多い。「宝くじ」はその典型だろうし、一般の人が相場環境が良いと聞きつけ株式投資を始める動機や、最近では仮想通貨もその類だ。バブルと呼ばれるものは大多数の人が持つ逆転願望の可視化でもあると思う。それこそ、noteで駄文を公開し誰かの目にとまり話題になるのではないか、そんな考えすら逆転願望の枝だと思うし、これを書いている自分自身は逆転願望にもう侵されているのだろう。

でも人はそこまで馬鹿ではないし、現実として残念ながらそんな簡単に逆転劇は起きない。心のどこかで有り得ないことだとも分かっている。

それでも、この生きにくい世の中を生きる上で「自分は何かが特別なのかもしれない」と心の中に置き続けることは人生の希望であり、生きる意味になっているかもしれない。捨てたものではないと踏みとどまる原動力の一端になるのだと思う。

ではなにが実際の逆転を引き寄せるのだろうか。それは過去を肯定せずに、自分の尺度を言語化した上でピュアな「自分はこう生きていきたいのだ」という過去とは決別した未来を実現するための行動を起こし続けるしかない。つまりマインドセットを180度変えてしまうしかない。進んだ結果「過去の延長にいればよかった、とか思ってしまうかも」なんてことは考えてはいけない。そうしなければ最初の一歩は永遠に踏み出せない。

現実は厳しい。生きる上での実生活をおざなりにはできないし、都合よく片足は過去、片足は未来に置いて、いい感じになってきたら進むしちょっとでもヤバそうなら戻る、なんてスタンスはすぐに見抜かれてしまう。そして大抵はうまく行かない。

逆転願望を具現化したいのなら、結局は過去は過去と割り切り、ある意味では過去を肯定しつつも、未来の選択肢は過去からは離した場所で「作る」しか逆転の道はないのだ。それでも逆転できるかどうかは分からない。

こうした行動をとらずに「自分が特別だ」と感じられる証や承認欲求を他人の評価の中にもとめてしまうのも世の常だ。「これでよかったのだ」という自己肯定感と、分かっちゃいるけどさはさりながらと現状に甘んじるだらしない自分、反面「自分はもっとできるはず」「自分にはまだ特別な何かがあるのではないか」という根拠なき自尊心と逆転願望を隠し持って自分を納得させつつ、大人は特別とも思えない現実を生きている。

実はこの投稿、ニンテンドースイッチのソフト「ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド」「ゼルダ無双 厄災の黙示録」をプレイして、思いの丈を吐き出したく書いているものだ。ゲームの感想でこの前段の内容は我ながらイカれていると思っているが、もしここまで読まれている方がいれば是非この後も読んでいただきたい。

​「ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド」「ゼルダ無双 厄災の黙示録」この最新作2本に共通するストーリーの骨子は、ゼルダ姫が自分の中に「あるはず」の力を目覚めさせることができず苦悩を抱え続けるというものだ。

ご存じない方のために簡単に説明すると、ゼルダ姫はハイラル王国の姫であり、女神の血を引いていることから、はるか昔から何度も起きている厄災に対して封印のちからを受け継いでいる(はず)というキャラクターだ。最新作「ブレスオブザワイルド」「厄災の黙示録」を通じて、ゼルダは封印のちからの覚醒方法すら分からない中、修行を続けるが厄災の復活が迫っているプレッシャーを父親である国王から受け続ける。(母親はゼルダ幼少期に他界)

一方で四六時中ゼルダのそばにいる侍従のリンク(主人公)は、ハイラル王家に仕える近衛の家系出身者。年齢もゼルダと同じくらいでありながら、積み重ねた鍛錬の成果が現れており、その力は周りにも認められている。なんなら退魔の剣の所有者にまで選ばれる完璧具合。

ゼルダは父親から「お前はできるはずだ」「早くしろ」「修行がたりないのではないか」と言われ続け(国王がゼルダに申し訳なく思うシーンもあるが)他人からの評価は皆無に近い。唯一、ゼルダを幼少期から知る英傑の一部が「十分に頑張っている」「信じている」と言う程度である。

その側には若くして修行の成果と頭角を現し、王家に仕える近衛家系の出身者としての責務を全うして侍従にまで出世、他人からの評価をしっかりと受けている同年代のリンク少年がいる。ゼルダはこのリンクとの対比によって更に葛藤を抱えていくことになる。

もちろんゲームなのでゼルダは最終的に力に目覚めることになるのだが、この間においてゼルダはほとんど自分に「特別な力」が存在するのかどうかも含めて期待することがない。リンクとの比較によって自分が求められている責務を全うできない不甲斐なさや苛立ちを自分自身に向け続け苦悩するのである。

約20年前、Nintendo64で「ムジュラの仮面」や「時のオカリナ」を嬉々としてプレイした少年は、リンクの体現する「努力は報われる」ことを信じて疑っていなかった。修練を重ね、敵をたくさん倒し、1つ1つコツコツと進めていけば世界は救える、良い結末になるのだと。

でもプレイしていた少年は大人になる過程で、自分がリンクのように努力を重ねられないこと、リンクのように1つのことだけを努力すればよいのではないこと、生きていくにはお金や人付き合いなどややこしいことがあること、気づけば自分の今の境遇から「逆転」ばかりを考えてしまっていること、ひたむきになれる何かは忘れてしまったこと、そして自分は特別ではないかもしれないことに、気付いて/気付かされてしまった。世の中は不条理なものなのだと。

ゼルダの苦悩と逆転が約束されたストーリーに、プレイヤーはゼルダが特別な存在であることへの「うらやましさ」を感じつつも「自分を特別だと信じていたい」自分の存在に否が応でも気付かされてしまう。そして自分をゼルダの苦悩する姿に重ねてしまう、というよりそう有りたいという感情に近い気がする。

任天堂が「ブレスオブザワイルド」「ゼルダ無双 厄災の黙示録」でゼルダ姫の苦悩と目覚めの物語にフォーカスした理由は分からない。

懐かしさから20年ぶりに手にした「ゼルダの伝説」はあの頃感じた「なぜリンクの伝説ではないのだろう」という疑問の答えを明確に示していた。あの頃リンクを自分と重ねて操作していた少年は、20年近くたった後「ゼルダのために」リンクを操作することになった。

社会や人生は自分の思い通りになることの方が少ないことにようやく気付いた中年にとって「ブレスオブザワイルド」「厄災の黙示録」のエンディングは涙するに十分すぎるものであり、あの頃プレイしていた僕たちを任天堂は忘れずにいてくれたのではないかと嬉しくも思う良作だった。そして「大人になったこと」を認めてもらったような、そんな気もした。

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