NATSUMONOGATARI論

・はじめに
 先の「NATSUMONOGATARI」論は「悲恋の歌」としての側面から考察を行ったものである。今回は「NATSUMONOGATARI」という楽曲のもうひとつの「文脈」について考察を行う。



・語彙の面から見た「NATSUMONOGATARI」


 先の「雑考」でも述べたことであるが、いまいちど整理しておくと、「桜木町」で使われている語彙の7~8割が「NATSUMONOGATARI」中で回収されている。しかし、一方で、「NATSUMONOGATARI」における語彙の使用率をみてみれば、「桜木町」で使用されている語彙は4~5割程度しか出現しない。これは、「桜木町」の語彙を使用しながらも、+αとして「NATSUMONOGATARI」独自の語彙が使用されていることの証左である。換言すれば、「NATSUMONOGATARI」は「桜木町」のストーリー性を承けながらも、「桜木町」の世界とは違う文脈を形成しているということである。 また、「NATSUMONOGATARI」で使用されている「桜木町」の語彙は、「NATSUMONOGATARI」では文になっておらず、大変ちぐはぐな詞であることにも注意しておきたい。以下にその全体を示し、解釈を行っていく。




・「君」の不在

 「桜木町」とは反対に、「NATSUMONOGATARI」では「君」の存在が見当たらず、あくまで、「僕」の中の思い出としての君が語られるのみである。つまり、「NATSUMONOGATARI」は、「僕」の一人称視点で語られている世界となっている。そう捉えれば、以下の箇所についても問題なく解釈を行うことができるのだ。

季節変わり今さら 思い出が何になるっていうのだろう
「帰ろう」「帰りたくない」 でも通り過ぎてゆく 誰かにあの日重ねて

 たとえばここで、「「帰ろう」「帰りたくない」」と言っているのは誰だろうか。普通に考えれば、「君」と「僕」のやりとりであると考えられるが、ここはどちらも「僕」のものとして捉えておきたい。このブロックを、通常の文脈に直してみれば、おそらく、


「季節変わりいまさら「帰ろう」、「帰りたくない」(という言葉を交わした)思い出が何になるというのだろう。(それでも)通り過ぎてゆく誰かにあの日(の僕と君を)重ねて」

という文になる。一方で、「僕」1人の内面の言葉として捉えれば、

「季節変わり(に)いまさら(君との思い出を思い出してしまうけれど、それが)何になるというのだろう。(だからやっぱり「君」との思い出のこの場所から)「帰ろう」、(でもやっぱり)「帰りたくない」(と思ってしまう。帰ろうとは思うけれど、)通り過ぎてゆく誰かに(君と過ごした)あの日(を)重ねて(しまう)。」

という文脈として読み取ることができる。一見すると、両者とも何気ない言葉選びであるが、ここで、「でも」という逆説の接続詞について整理しておく。

「でも」(「それでも」の略)…前の事柄に対し、後の事柄が反対・対立の関係にあることを示す。〔コトバンクより引用〕

 このことから、「でも」という前後の事柄は対立関係にあるということが理解されるだろう。具体的に歌詞に落とし込んでみれば、「思い出が何になるっていうのだろう」という部分は過去の思い出に否定的である一方、「通り過ぎてゆく 誰かにあの日重ねて」という部分は、全面的な肯定ではないものの、事実としては君と過ごした、楽しかったであろう「あの日」を重ねてしまっている。では、「帰ろう」「帰りたくない」という部分はどのように解釈すべきか。ストレートな表現ではないため、見えにくいが、このブロックには、否定(思い出が何になるっていうのだろう)→葛藤(僕の自問自答としての「帰ろう」「帰りたくない」)→肯定的(誰かにあの日重ねて)という流れが存在していると考える。
 もちろん、前者のままでも否定→肯定という解釈は可能である。そこで、この「帰ろう」「帰りたくない」の主体は誰であるかを決定づけるものがある。「通り過ぎてゆく 誰かにあの日重ねて」という部分である。
 「僕」が重ねているのは、前者で示したような「僕と君」ではなく、明らかに今ここにいる「僕」と、過去の「君」である。なぜならば、ここには「君」が不在だからだ。「僕」の一人称視点で語られる世界の中には、もう「君」はいない。故に、この「帰ろう」「帰りたくない」という部分はふたりの掛け合いではなく、「僕」の内面的な葛藤であるという解釈を行いたい。




・随所の違和感と裏の文脈

 「NATSUMONOGATARI」の歌詞は、今までの北川曲にないほどの複雑さであるということに、異論はないであろう。それは、最初に述べたように、詞にちぐはぐな言葉が使われているというだけではない。結論から述べておくと、

「NATSUMONOGATARI」には当該楽曲だけでは読み取れない、裏の文脈が存在しているのである。

そしてそれこそが、本当の「NATSUMONOGATARI」の姿であり、表の文脈である悲恋歌という姿は、裏の文脈をカモフラージュする隠れ蓑ではないかと考える。では、裏の文脈とはなにか。憚りなくいえば、それは「ゆずの物語」としての文脈である。この裏の文脈で詞を読み解いていけば、随所に現れる「桜木町のアフターソング」としての違和感が見事になくなる。ここでは、悲恋歌としての表の文脈では齟齬をきたす部分を紐解き、その論拠としたい。



・「NATSUMONOGATARI」と「Green Green」

初恋みたいに戸惑いながらも 触れ合うたび離れたくなくて
暮れてく空 切ない蝉しぐれ

 まずはこのブロックである。ここは表の文脈で理解しても違和感はないと思われるが、裏の文脈に置き換えても読み取ることができる。
 ここでんきゃ氏の解釈を検討しておきたい。んきゃ氏は、この楽曲を解釈するにおいて、北川3部作(「公園通り」「Green Green」「マボロシ」)のひとつである「GreenGreen」との関係性を説いている。この部分と対応する箇所を挙げておく。

「帰り道待ち合わせの時刻 呼びかけたら振り向いた君
少し大人ぶって でもカッコつかなくて 吹き出したいつものあどけない笑顔」

 んきゃ氏の論を要約すれば、「初恋みたいに戸惑いながらも 触れ合うたび離れたくなくて」という部分と、「吹き出したいつものあどけない笑顔」という部分の空気感が対応しているのではないかということになる。そして、この論を承けることで、「NATSUMONOGATARI」が描く文脈が一変する。
 「二人」、つまり「桜木町」及び「NATSUMONOGATARI」の君と僕から、キタガワとイワサワへの文脈の変化である。続く箇所、

夏物語二人語り いろはに思ゑど 行ったりきたり
泣きたくなるほど会いたくて 一二三数える四五六七夜

では「いろは歌」の援用が行われている。「いろはに想ゑど」と「いろは歌」の対応する部分は「色は匂えど散りぬるを」(香りよく咲いている美しい花も、散ってしまう)である。「鮮やかだった「あの日」の景色と、君との思い出もやがていつかは散ってしまう」という解釈を行うことができる。この「終わりを自覚している」という点は、「NATSUMONOGATARI」の「ハッピーエンドも永遠もいらないって気づいてた」にも通ずるうえに、以下で詳細に述べる「センチメンタル」にも通ずるものであることに言及しておきたい。



・「NATSUMONOGATARI」と「センチメンタル」

「大きな観覧車「花火みたいだね」って笑った君の横顔 時間が止まって欲しかった」
「そしていつの日か忘れてゆく 君の笑顔も泪も」
時を刻む 観覧車 音のない花火 信号待ちの交差点に一人
ここにあるんだ 並んで歩いたリアル あり得ない 消せないよ

 上記の箇所が対応関係にあることは一目瞭然であろう。ここで問題にしたいのは、「忘れてゆくはずだったのに忘れられなかった「君」という存在」である。しかし、この箇所は、「桜木町」と「NATSUMONOGATARI」の詞だけを見ていても読めない。これを読み解くのに必要となってくるのが、「センチメンタル」である。この点もんきゃ氏と見解が被るところであるので、氏の論も引用しておく。
 んきゃ氏は、「NATSUMONOGATARI」と「センチメンタル」の類似性を次のように指摘する。

1.「ハッピーエンドも永遠もいらないって気づいてた」と「もしも暗闇に包まれてしまうときは情熱の光を道しるべにして」
2.「ここにあるんだ 並んで歩いたリアル あり得ない 消せないよ」と「ふり返り寄り添う並んだ足跡 いつまでもこうして君と歩いていたいから」
3.「センチメンタル」の2番は友情としての解釈であること(2人の間に優劣がないこと)

 以上、3つの観点からこれらの類似性について言及している。稿者も、「センチメンタル」もまた、ただの恋愛ソングではないと考えるのである。もう少し言えば、「NATSUMONOGATARI」と同様の文脈を背負っていると考える。以下、1から順に考察を行う。
 まず1の点についてであるが、注目したいのは「センチメンタル」の方の詞である。このとき「僕」は「暗闇に包まれてしまうとき」を予測しているのだ。んきゃ氏の言を借りれば、「センチメンタル」の主人公もまた、「本当はハッピーエンドも永遠もないということに気づいている危うさを持っている」ということである。
 そして続いて2つめと3つめの点についてである。この2つのの詞を裏の文脈、つまり、ゆずの物語としての文脈で読んだ時、単なる「似ている歌詞」ではなくなるという点に留意したい。今一度、「センチメンタル」の詞に立ち返ると、1番は恋愛ソングともとれるが、はたして2番の詞は恋愛ソングになりうるのだろうか。恋愛ソングとしては、どこか違和を感じるのである。
 おそらく、その正体は、主に3つめの点として挙げた「君」と「僕」の関係性、そして「ふり返り寄り添う並んだ足跡 いつまでもこうして君と歩いていたいから もしも暗闇に包まれてしまうときは情熱の光を道しるべにして」というブロックのせいである。当該箇所は先に述べた1つめと重複するが、触れておきたい。
 稿者が一番違和感を覚えるのは、「もしも暗闇に包まれてしまうときは情熱の光を道しるべにして」というところである。これまで「僕」と「君」は同じ道で歩みを進めてきた。そして「暗闇に包まれてしまう時」がくるかもしれないとを予見し、その時は「情熱の光を道しるべ」としようというのである。
 ここに大きな違和を覚えるのだ。これから来たるであろう困難に対してともに立ち向かう君と僕は、はたして情熱の光をしるべとしてそれを越えようとするだろうか。男女の文脈で捉えるとするならば、ともに困難に立ち向かう時に謳われるべきは、むしろ愛情の力がメインとされるはずである。
 また、ここで「いつか」の詞に着目したい。この歌の「いつか又大きな波が あなたを連れ去ろうとしても すべての力使い果たし 守ってあげるから」という詞である。この部分もまた、将来訪れるであろう困難を予見する箇所である。しかしこの詞では「僕」が「あなた」を守ると謳う。この手法は、北川曲の恋愛ソングの基本的なスタンスの典型的な一例であるのだ。ここには明らかに、「僕」と「あなた」の間に優劣が存在している。そしてそれは、他の北川恋愛曲にも引き継がれているのである。
 だから僕とともに情熱を振りかざして立ち向かう「君」は、男女ではなく、ともに同じ歩幅で、同じ道を歩んできた同志にこそ相応しい言葉なのではないかと考える。そして、「いつか話してくれた君のー」というブロックは、恋愛的にもとれるが、この箇所は、んきゃ氏の解釈を踏まえれば、「Green Green」の「帰り道待ち合わせの時刻ー」の表現と類似関係にあると考える。恋愛関係とはまた違う、しかし甘酸っぱい関係。幾度となく見せつけられてきた、その関係性を我々はもう知っているだろう。
 以上より、「桜木町」では忘れてゆくはずだった「君」のことを、「NATSUMONOGATARI」では忘れられずにいること、そして「ハッピーエンドも永遠もいらないって気づいてた」のは、「センチメンタル」のころからであり、そうした「君」との距離は「Green Green」の距離感であるということが導き出される。
 そして、この解釈で考えれば、難読個所である以下の2点についても論理性が保たれる。



・「NATSUMONOGATARI」とトビラ期

 まずはひとつめのこのブロックである。

「ありがとう」って迷わずに言えたら 何もなかった顔して会えたら
ラッキーカラーも星座も苦手な占いだって 信じてみるから

 当該箇所は、「後悔」の文脈としてとることができる。「ありがとうって迷わずに言えたら」と「何もなかった顔して会えたら」は、後悔を伴ったIfの話である。「NATSUMONOGATARI」の「僕」は、「ありがとうって迷わずに言え」なかったし、「君」との間に「何かがあった」のだ。ここを我々が知らない、2人の間に起った「何か」として霧中に葬ることは容易いが、「ゆずの物語」の文脈として捉えると、実態を伴って立ち現れるものがある。「ゆず」の2人の間にあった「何か」と考えられるものは、件のトビラ期以外に見当たらないのだ。その証左を以下に示す。

つないだ手を離した 辛かった 寄り添うその優しささえも
「いつもそばにいるよ」って両手広げてくれた 飛び込むこと出来たなら

 この部分には、かなり違和感を覚えるのである。「アフターソングとしてのNATSUMONOGATARI」と、元になっている「桜木町」の「僕」の立ち位置がねじれていることにお気づきだろうか。そして、さらに踏み込んでいえば、「つないだ手を離した 辛かった」という表現の裏には、またもや「センチメンタル」の文脈が存在すると考えられるである。

「夕焼けの空に一つ 逸れた雲を見つけて君が何処にも行かない様に強くその手を捕まえた」

 ここで「君」の手を掴み、「NATSUMONOGATARI」で手を離す。「自由の風」に吹かれることを喜んでいると同時に、「自由の風」は「逸れた雲を」つくりだしてしまうのである。だから「僕」は不安を感じ、「君の手を捕まえた」のだ。そして、この描写こそが、「NATSUMONOGATARI」の「ハッピーエンドも永遠もいらないって気づいてた」、「つないだ手を離した 辛かった」という文脈で回収されるのである。
 「センチメンタル」のころに、もう既に「ハッピーエンドも永遠もいらないって気づいてた」ということを予見していたということは、先述の通りである。そこに「つないだ手を離した」である。なぜならば、「君」の「寄り添う優しさ」さえも「辛かった」からだ。だから手を離さざるを得なかった。この理由については後述する。
 ここで一旦、「桜木町」に立ち返ろう。「桜木町」の方の「僕」は、「繋いだその手をいつまでも離したくなかった」けれど、それでもたとえそれが虚勢だとしても前に歩き出す。しかし、「NATSUMONOGATARI」の方に着目すると、「つないだ手を離した 辛かった」という心情を吐露している。これは、17年前に囚われている「僕」の心情の吐露である。ここにねじれが存在する。前を向こうとする「僕」と、弱い「僕」なのである。
 「NATSUMONOGATARI」では、その「僕」に対して「君」が「「いつもそばにいるよ」って両手広げて」いたことになっている。だから、その後の「寄り添うその優しささえも「いつもそばにいるよ」って両手広げてくれた 飛び込むこと出来たなら」という表現は、どこか突発的に出現したように見受けられるのだ。そして、だからこそ、この「僕」には、明らかな二重文脈が潜んでいると考えられるのだ。なぜなら、このブロックは、前者と後者が繋がっていないのである。前者は「NATSUMONOGATARI」の文脈としてはクリアであるが、後者は別の文脈であると考えられる。そしてその文脈は、トビラ期へと遡ることとなる。
 では、「ゆず」の2人の間にあった「何か」、という問題に立ち返ろう。まず、トビラ期のゆずには何があったのか。その概略を記す。
 トビラ期のゆずには、2人の仲を微妙なものとしてしまった「タイアップ問題」が存在する。この問題は、某ドラマ主題歌として2人が別々の曲を制作し、秤にかけられたことに端を発している。その際に制作されたものが、「幸せの扉」と「飛べない鳥」である。結果として、「飛べない鳥」が採用され、ゆず史上最も売れたシングルとなった。しかし、それまでゆずの人気を支えてきたものは北川曲であり、その自負が北川にもあったであろうと推察される。おそらく、これがきっかけとなり、2人の仲に不穏な空気が漂うようになったのである。そしてその空気感のまま迎えたのがトビラツアーである。このライブではもちろん「飛べない鳥」も歌われることとなる。しかし、北川は真面目に「飛べない鳥」を歌うことが出来なかった。そしてここが、先述の「つないだ手を離した」理由とであると解釈しておきたい。(DVDをお持ちの方は参照されたい。お持ちではない方はご購入を検討いただきたい。)しかし岩沢は、そんな北川に自らの立ち位置を示す。それが、「飛べない鳥」なのである。「ここにあるのは風 そして君と町の音それだけでよかった」のだ。「君と歩きそして笑うために 全てを知ってゆく事 恐くなんてないさ」なのだ。そして、時が経ち、北川もその意味することを理解する。そのことに気づいたときの北川の心情は如何なるものか。我々に知るすべはないが、その岩沢のスタンスに気づいているということの証左が「寄り添うその優しささえも 「いつもそばにいるよ」って両手広げてくれた 飛び込むこと出来たなら」なのである。だから、「「ありがとう」って迷わずに言えたら 何もなかった顔して会えたら ラッキーカラーも星座も苦手な占いだって 信じてみるから」は後悔の念であるし、「寄り添うその優しささえも 「いつもそばにいるよ」って両手広げてくれた」が意味するものは、「飛べない鳥」を筆頭とする「北川に向けられた岩沢曲」であり、コウジイワサワであるのだ。




おわりに

 以上、二重文脈という視点から、「NATSUMONOGATARI」について考察を行った。「ゆずの物語」としての文脈を以て「NATSUMONOGATARI」を解釈すると、最初に述べたような詞のちぐはぐさや、違和感をすべて乗り越えることができるのである。
 故に、「NATSUMONOGATARI」は決して「桜木町のアフターソング」ではなく、恋愛ソングの皮をかぶった「ゆずの物語」という二重文脈で描かれているものと位置づけることができる。


#ゆず
#NATSUMONOGATARI


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