角川短歌賞佳作 『対岸』魚谷真梨子 作を読む


『短歌』2021年11月号掲載の『対岸』魚谷真梨子 作の
中で印象に残った歌とその感想を書きます。

なお、本感想は、選考者の評の言葉や読みにステレオタイプ的に   
感じるところがあり、作品の魅力を削ぐような特定の方向に固定してしまうのではないかと思い、その点を自分の中で解消したいと思ったことがきっかけとなります。

全五十首と選考委員の評は『短歌』2021年11月号を読んでください。

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女であるということ、母であるということ、妻であるということが
「わたし」を定義する。50首を通してその定義されることに抗おうとする。
そしてその定義するものは外からだけではなく自身のなかにもある。

「でも幸せでしょう」って声を逃がすため冬の窓いくつも開けたけど

否定形の後に投げかけられる「幸せ」ということば。
この(息苦しい場所から)幸せを逃がすために窓をあける。
そしていくつも窓を開けたけど幸せという声は出てゆかない。
それは逃がそうというよりも「幸せ」という声そのものが
わたしを苦しめるようで去って欲しいと願うよう。
冬の窓を開けたなら冷たい風が吹き込んでくる。
その冷たい風に晒されている場所こそがわたしのように読める。


冬が来るたびに少女は死んでいく匂わない花束を抱えて

「冬が来るたび」という反復と「死んでいく」という進行形の
組み合わせに固有のひとりでは無く名をもたない少女という存在を思う。
作中主体の中の少女でもある。「匂わない花束」だから、
それは何かの感情を訴えものでもなくただ繰り返し死んでゆくのを
見ている。そこに深い悲しみがある。

部屋中に子どもの匂いがちらばって其処へゆっくり夕闇も来る

本来であれば「子どもの匂い」は愛おしいものなのだが、
ちらばっているという表現が空虚感を感じさせる。
「子どもの匂い」だけが残された部屋。子どもはいない。
在った光景と、いまわたしがそこに居る場所が重なる。
そこへ夕闇が来てさらに匂いばかりが感じられる。
子どもの匂いが闇に溶けてゆく。

白い朝、白いパン皿、死後という眩しい時間をいま生きている

「し」の表現が「死」に収れんされる。死んでいるから時間は
止まっているだろう。光には熱も色もなくただ白く眩しいだけ
そんな中で生きるという反対表現がただ今という時間と生きる
ということを際立たせる

子の時間とわたしの時間がまざりあう水際に石を拾ってあそぶ

50首の一連の中に通底する感情がある。
まざりあうことを意識することでまざりあわない場所であることを知っている。
時間が水際とつながり、「時間の水際」で石を拾ってあそぶようで、
まざりあう時間、あそぶ時間もいずれなくなることを前提とした中での
その時間のあったしるしとして、石(思い出)を先取して拾っている。

 許すための、あるいは許されるための、手首で溶いてゆく生卵

「許す」「許される」対象がここでは明確ではないが、
それは在るということそのものにつながる。
ただ、卵を溶くという生活とそれをするのは手首の動きという
身体のつながりだけが確かなものとして置かれている。

傷口のように川面はきらめいてわたしを均してゆくのはわたしだ

読んでいて破片が刺さるような痛みを感じた。
「わたしを均す」というのは生きていく上での折り合いをつけるように
思う。それは、自身を傷つけないためのようである。
そういうことを歌わなければならないことが痛く思った。

産むことも産まないこともみしみしと鼓膜を圧してくる夜がくる

産むということは自分以外のアイデンティティを世界に自身の意思で投げ出すことである。そのことについて引き受けることができるのかという声は自身のなかにある。
しかし、その自分以外のアイデンティティを要求する社会の声もまた自身に内在する。その葛藤を「鼓膜を圧してくる」という表現で表す。
また、「圧してくる」「夜がくる」ということばで繰り返されることが表現されている。
ここで歌われている「夜」とはひとり眠る直前の夜のことなのだろうか、
それとも別の夜なのだろうかそのことを思った。

産まなかったほうのわたしが対岸にときおり手を振るから振りかえす

「対岸に」の「に」の読み。”対岸にて”なのか、"対岸に対して"なのか
この歌の主体は「産まなかったほうのわたし」であり、産んだわたしは振られる側である。
そのうえで「振りかえす」わたしと書かれていないからこの歌を詠うわたしと重なる。
すなわち、「産まなかったほうのわたし」は「産んだ」作中主体=作者としてのわたしの中に存在する。それは今も存在してときおり手を振ってくるのである。この振る手はエールなのかそれとも何かの呼びかけなのか。それでも産んだわたしはわたしの中で孤独ではないわたしを見つけている。


以上

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