歌集『ナムタル』土岐友浩/著 を読む

『ナムタル』は難しい歌集である。
それは作者のあとがきにもあるように歌の制作期間が2019年5月以降ということと医療従事者という作者の職業がかかわっているように思う。
Ⅱ章の最後の歌

詩はやがて詩人の髪に横たわる コロナ コロニラ コロナ コロニラ

コロニラ P85

ここからコロナの疫禍がはじまり、Ⅳ章でようやく出口が見えてきた世界になるのだが、しかし、なぜだかコロナ前の章であろうⅠ章さえも予感のようなものを感じさせる。
それは、おそらく今となってはコロナ禍の時間を通過してきたからなのだろうと思う。
歌をつくられたとき、コロナ禍の予感なんてなかったはずだ。
しかし、コロナ禍がなくったって生と同時に死はあって、土岐氏の歌にはそれが通底している(と勝手に)ようだ。

こう書くと暗いように読めてしまうが、そうではなくて口語ですごく軽やかに歌われていてその軽やかさがうたを意味論的に読むことに、意味があるのかと躊躇させられる。
「面白いものはおもしろいし、いいものはいいんだ」で終わらせるなら、       よいと思った歌の列挙でよくなってしまうが、
それだと表面的な鑑賞でしかなくなるので、なぜよいと思ったのかを、しかし過剰な深読みにならないよう(読者が勝手に歌へ情報を付与して読む)、自分を問いながら感想を書いてみることにした。

以下に挙げる歌は、よいと思った中でもしぼったものであり、これがすべてではない。たとえば、Ⅱ章の「エクソダス」の連作などはみな好きである。

巡礼の鈴を鳴らして四本の脚と車輪がわたしを運ぶ  

エクソダス P41

先にも書いたとおり、いまとなってはこの章のうたが(編年体の歌集という前提だが)すでになにかの予感のように思う。

いつも歌集の感想を書いてあとから思うのは、「あのときああ書いたけど全然違う読みだったなあ」ということである。
それは自身のそのときの心持ちでもあるが、感想を書くことで読みが整理され、また違う形でうたと向き合えるようになるからだと思う。だからここに書くのは、いまわたしがこう読んだというベースラインとしてもある。

富士山にたいした用はありません 松の葉っぱをポケットに挿す 

サマータイム P13

たいした用はありませんといいつつ、初句に富士山。松の葉のさされたポケットから富士山への遠近感が絵画的に歌を読ませる

パリの死はあまねく溺死ではないか ぶどう畑がまだらに光る

メゾン・ローズ P36

一連からしてこの川はセーヌ川であろう。パリの中心を流れる川はそう思わせるのだろうか一字空けてぶどう畑が下句には歌われるが、前後の歌から、ワインをたらふく飲んで酔いながら川に映る光を遠いぶどう畑と連想しつつ死を妄想している歌と読んだ

こんにちは、こん、こん、足を沈ませて踊り場のある螺旋階段

クロックワーク P47

初句、二句の軽やかさがよい。そして三句目の沈ませての言葉の選択が歌を具象化するとても好きな歌

低く飛ぶ 高くも飛べる サンマルクカフェを横切る夏のつばめは 

ナムタル P57

初句は飛ぶものをカメラが映すようなのだが、二句目の「も飛べる」で
そのカメラが見ている作中主体の眼に同化するよう。
そして、サンマルクカフェの「サン=太陽」と夏のつばめがつながって
鮮やかですがすがしい

長靴が田んぼに埋まりかけている能因塚にうずたかく雨

チェックポイント P73

田んぼの、長靴の向こうに能因塚が見える
雨の降り具合が「うずたかく」とうたわれることで継続的につみあがる質感があるまるで能因塚の上に雨が天までつみあがっていくような。

鳥肉のあぶらが紙袋越しに にじんで しみて 原罪を負う 

コロニラ P77

結句にぎょっとする。
鳥肉のあぶらが紙袋越しににじむ(きっとこれはコンビニのからあげくんみたいなの)その時間経過の中ですこしずつあらわれてくる、それは鳥肉の油という比喩の中に含まれるわたし自身を含む肉そのものの存在。それを原罪と凝視している。

長い歯みがきの途中でふたりからふたりに戻りたいとあなたは

コロニラ P80

「長い歯みがき」をしているのは「あなた」であり、同時に作中主体も一緒に「長い歯みがき」をしているのだろう。
「あなた」が伝えるとき「あなた」の歯みがきは中断される。
作中主体は歯ぶらしを口に突っ込んだまま聞いている(かもしれない)。

ふたりからひとりにはなりたいうというのなら別れのうた。
が、「あなた」は、ふたりからふたりに「戻りたい」という。
それはふたりでありながらのソロの回復ということ。対して「作中主体」はどう答えたかは読者の答えとして渡されている。

ほっぺたの肉にマスクが盛り上がるあの金色のビリケンを撃て!

ビリケンを撃て! P118

緊急事態宣言が出て、ビリケンにさえマスクがかけられている。
そのことへの真剣なユーモア。この歌のひとつ前の歌もそう読むとおもしろい(と言うことを躊躇させるところがまたよい)

極楽は集中治療室にあるかもしれなくて水に飛ぶ蝶

ビリケンを撃て! P118

平成の不発弾から逃げてきた煙まみれの黒猫を抱く

トリキバーガー P152

平成の不発弾ってなんだ?煙まみれの黒猫?(チェシャ猫?)
しかし、不発弾はどこかにあるのだ。それを知りつつ生きている。
(これを書いている今、不発弾は破裂しそうになっている)

このままで このままで このままで このままで 渋谷のトリキバーガー

トリキバーガー P153

4度「このままで」を繰り返す祈り。しかし、祈りの結は渋谷のトリキバーバーである、作中主体はトリキバーガーの安寧を祈っているわけではないだろう。(あたりまえ)が、そのアンバランスさが祈りの切実さと祈る主体さえもがわかっている脆弱さが響く

最後に、各章の連作の名前がとてもセンスよいと思った。

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