『記憶の椅子』中津昌子/著 を読む

緑の表紙に薄く白い半透明なカバーが掛けられている。
この歌集のつくりそのものが歌集の題を表すよう。歌の言葉が違う時間や空間に連れて行ってくれる。以下に感想を書く。

もうそこまで青い闇が来ているのに風景を太く橋が横切る  p12

夕暮れどき。
「青い闇」が不可侵な時間と空間なら「横切る橋」は
現実に存在する人工物。けれど、この時間は橋はまるで人の手から
離れて「青い闇」と響きあうように存在する。
「のに」という接続で現実と異界のはざまがあらわれてくる。
「太く」が効いている。

ぬるい光が口にたまって夏の日の午後四時という時間を歩く   p35

夏の日の昼の気だるさが光となって口にたまる。そういう中を歩いている。
実際には現実の道を歩いているのだろう。
が、「ぬるい光」がキーとなって「夏の日の午後四時という時間」
そのものを歩いているような不思議な読後感がある

閉館の時間が近しガリレオの大天球儀を過ぎる足音   p56

章の題は「フィレンツェ」
実際にフィレンツェの博物館を訪れたときに景をうたっているのであろう。
景はシンプルである。が、「足音」とあることで第三者の視点(外からの視線)になる。
「ガリレオ」「大天球儀」という固有名詞が効いていて、まるで大天球儀にいるガリレオが通り過ぎる「わたし」を見ているような視線を感じる。

ミサイルが飛んでくるかもしれぬ空 ばかだなあ、雲が体をひねる   p70

「ミサイルが飛んでくるかもしれぬ」と空を見上げている私。
あるかないかわからないことを思い悩んでいる自身の心を
見ている私ががいて、雲に託して「ばかだなあ」と言わせている。
「雲が体をひねる」のは諧謔的に表現しているのであろう。
が、さらに雲は体をひねってミサイルを避けられたとして、
ミサイルが飛んできたときわたしはひねって避けることはできないので
そこは滑稽でありつつも恐ろしかったりする。
(ちょっと岡井隆のうたを思い出したりした)

滅びかくあかるくあれば浴場に女奴隷の唇ゆるぶ   p91

イタリヤ旅行の歌。「浴場」とあるのでローマ帝国時代か。
あるいは一夜にして火山噴火でほろんだポンペイか。
はるか古代にあった「滅び」も、ここにあるのは「女奴隷の唇ゆるぶ」景である。それを見ているわたしからは「滅びかくあかるくあれば」と見える。
そこに人の営みの長い時間を感じる。

剥落をのがれるところ 鞭をもつ女の腕が大きくしなる   p95

上記のうたと同じ一連。3句以降のダイナミックな動きと
「剥落をのがれるところ」のつながりに歴史の長い
時間を一瞬に凝縮したような景が見える。

レストラン〈金の林檎〉の椅子の背に忘れてきたる馬のスカーフ   p101

この歌はそれぞれの名詞とその景がかっこよくてうれしい。
その中で効いているのが「椅子の背」である。
この具体によって「金の林檎」「馬」といったギリシャ神話的世界が
歌にリアルな世界との設定を持たせる

死者なれば憚ることなく名を呼ぶに木賊は青くかたまりて立つ   p117

とても魅力的な歌。が、どう読めばよいかわからないところがある。
上句の「死者なれば憚ることなく名を呼ぶに」ということは死者ではないと
いうことだろう。そして、この上句がかかるのは「青くかたまりて立つ」「木賊」。青細く節の黒い木賊が死者というイメージとを呼び起こしつつ生であること。あとは能の演目に「木賊」というのがある(らしい)。
そう知ると「死者」と「木賊」はリンクしてくる。

鴨鍋の湯気の向こうに見えている父は喉まで釦をとめて  p186

父への思い。鴨鍋という鍋物を食べるときでも喉まで釦をとめるという
父の生真面目さとそれを描写する子の心。
でも、それが湯気の向こうということに少しの距離を感じる。
この距離は今だけでなくこれまでの記憶の中の父も重ねて見るようである。

古本にひとすじ銀の毛光りたり時間はにわかに曲がりはじめる   p187

かつて誰か知らない人に読まれ、そして古書店を経てわたしの手元に
来たのであろう古本。その本をめくっているとあるページに
銀色に光る髪の毛が挟まっているのを発見する。
そのとき「古本」は具体的な歴史を持った存在としてわたしの前に現れる。
その古本の時間と私の時間が交差するように感じられる。
「ひとすじ銀の毛」と「にわかに」の言葉が読み手の時間を曲げるスイッチになっている。

ベランダに一段下がって出るときに時間揺れたり若き母おり   p189

この歌は「時間が揺れ」ている。
現実にはそこに若き母はいない。
けれど、わたしが「ベランダに一段下がって出る」のは
母が若い頃、つまりわたしが子供のころ、わたしが母に会うために
していた動作で、その動作がスイッチとなってそこに母がいるという
感覚につながったのだろう。ここでは、「時間揺れたり」という言葉を
使い、身体感覚の深いところを通じて母への思いをうたっている。

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