『僕は行くよ』土岐友浩/著 を読む

たくさんの付箋を貼った歌の中からさらに好きな(というか今の気持ちに合う)歌を選んだ。個人的な好みで読んだ感想として受け取ってほしい。

いないのにあなたはそこに立っているあじさい園に日傘を差して  p12

いない人を想う。想えばその人は見える。
記憶からにじみ出るような景としあじさい園と日傘の人がいる

死んだ人は歩けなくても見ることはできるだろうか水無月の水  p18

実体(としての足)がなくても見るということは光を受容すること。   だから魂なら見られるかもしれない。それはそもそも見えない季節の水なのだから。「死んだ人」と「水無月」が響きあって幽かな光のようである。

この次の次の市バスを待ちながら百年前の祇園を思う  p28

バスを待つ人は百年前に生きていたわけではない。
次の次の市バスを待つときふと百年前のことを思う。
そのとき、自分の中にない百年前の記憶を眼前に見ようとする。
「次の次の」重なりがしばしの時に百年の記憶を重ねるようによめる。

十二歳くらいの僕が寒そうにゲームボーイで遊んでいるよ  p42

どこに遊んでいるのか。自分の記憶の中に見える僕。
「十二歳くらい」の僕を俯瞰して見る。
「寒そうに」「ゲームボーイ」だからひとりだろう。
記憶が心に像を結び歌になる。

遠くまで来たはずなのに桂川イオンシネマで空襲を見る  p53

「遠くまで」は空間のようでありながら時間をも表現している。
そして時間と空間が重なりあうとき映画を通じて、体験しなかったことも
記憶として共有されていくよう。

つばのある帽子を借りてお父さん、僕は怪物ですとつぶやく  p84

藤子不二雄Aの『怪物くん』のイメージ。
が、なぜこの歌はこんなにもさびしく届くのか。
景としては僕は少年であろう。
なぜ「僕は怪物です」とつぶやいたのだろうか。冗談ならつぶやかないだろう。ならば自分自身の内声か。
この歌集のp93からの「落下するヒポカンパス」に

触ろうとしただけなのに落下したヒポカンパスに目をつぶされる  p97
あ、僕とおなじ十四歳だって 夜のフェンスの奥の紫陽花  p98

の歌につながるよう。(そう感じるのはわたしだけかもしれないが)

みずくさを水に浮かべるイメージで一円玉をおでこにのせる  p94

いや、だから?ということなのだがところどころにこういった
うたがあってうれしい。景としてはおでこに1円玉をのせるのだから
天を向いているのだろう。きっとイメージしながら口はポカンとあいて
目はうつろ。一円玉の銀色が灯りにくすんで光るのがみな脱力系である。

六月は蛇を隠しておくところ 雨のやまない校庭に行く  p112

この連は神戸の事件をモチーフにしている(と思う)。
歌を読み込もうとすると暗いところに自分も落ち込んでいくようである。
読み手のなかにある薄暗い雨の風景の校庭の蛇の気配が歌を通じて感じる

放課後はほとんど美術室にいてひかりのような一年だった  p124
十年後、僕はどうしているだろう 冬の河原のすすきをつかむ  p124

思春期のノスタルジアという言葉でくくってしまうと意味はない。
そこから地続きのわたしがいるということ。幸せな時間と不安な時間。
「ひかりのような一年」「冬の河原のすすき」というのがよい

山頭歌で三一〇円のラーメンを食べていたのが三月十日   p129

わたしは鴨川デルタをはさんで西側だったので(時代ももっと前)
天一。こういう歌好き。

銀色のかがやく丘を突き進む戦車が見える霧の向こうに  p141
戦って死ぬことはもうないのだと思うヨモギの葉をむしりつつ  p142
もっと掘れば湿った砂があるはずの骨になったらそこへ行こうか  p146

「夏草」の一連。この「夏草」の連は全ての歌をあげたいほど。
というより連として読むことに意味がある。
旅行詠ではなく現地の土に根差した記憶を歌に掘り起こすようである。
映画的とも違う、場所の記憶をうたにしている。
ノモンハン事件のことだと思う。
なぜだか村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』をまた、読みたくなった。

たましいのように小さな花だけを咲かせる空港に雨  p165

「たましい」という言葉が歌の中で浮かずに響く。
茫漠とした雨の降る空港の敷地の中に視点がどんんどん絞り込まれて花が見える。美しくてとても好きな歌。

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