『シアンクレール今はなく』川俣水雪を読んで。

【まとめ】

 Ⅰは月光、Ⅱは塔での詠草を編年体で書かれているとのこと

 Ⅰでは、高野悦子、高橋和巳への思いを通して自身が出会えなかった  その時代の持つ痛みを歌うところから始まる。
 しかし、それは憧れや郷愁にも通じる歌い方でもあり、現在という時代への批判が取り込まれる危うさをはらむとも考える。
 ただ、そういった郷愁ばかりではなく題詠的に作者のいわゆる青春時代を彩った、文学、学び、歌謡曲を歌にちりばめそれらがこの歌集の作品世界への理解を深める手がかりにもなっている。
 そして、それらの歌の後にならぶ、京都に居を移してからの歌が現在という時代を作者のこころに寄り添って描かれているようで、そういう歌があるからこそ過去からみた現在を鋭く批判してる歌集となっていると考える。

 Ⅱはそういった思想性から距離を置くようで今の自身の五感を使ったいわゆる写生的な歌が多い。
 それはⅠの「月光」と「塔」で結社の特性や歌へのアプローチの違いを作者が使い分けているともいえるのだが、むしろ、ⅠとⅡのそれぞれに入れ間違いのように入っている歌がとてもよかったりするのだ。そしてそのバランスと融合こそがこの作者の歌の最も良いところだと思える。


【2020/10/3 追記「シアンクレール今はなく」の読書会を終えて】
 読書会で版元の方のお話しや川俣さんの短歌絶唱朗読を聞いて、この歌集は作者の魂の歌集なのだと思った。
 歌集(のみならずいわゆる作品)にはいろいろなタイプがあるが、この歌集は川俣水雪という存在と一体となってある歌集なのであろう。
 そして、Ⅰの高野悦子を歌った一連は声に出して朗読(つまり絶唱)されること前提とされた短歌のように思う。目で読むだけでは現れない魅力が声に出されることによって顕在化する短歌もあると考える。
 それもひとつの短歌=うたのかたちだと思った。


【Ⅰ】

・我もまた孤立無援を甘受せる老いて子なきを独というなら(p21)
→高橋和巳の「孤立無援の思想」が下敷きになっている。
 が、その孤立無援の孤につながる独を子のないことに持っていくことに思想に寄り添う情が現れている

・帰省する君を送りて君の乗る長距離バスの窓辺に君は(p25)
→君が3回、高野悦子、高橋和巳の時代のなごり、あるいは重ね合わせるように情を歌う

・卒論を書き上げし朝すでにもう春は隣に来ていると知る(p27)
・それぞれに遠き故郷あることの白紙答案 今朝 雪愛宕(p27)
→卒業の春が来るということは別れの訪れでもある。春は待ち遠しさの中に別れを含む

・列島の幾百万の眠らざる監視カメラに映る 初蝶(p28)
・ああそれも美しかりし風景と記憶装置を微かあざむく(p28)
→あざむかれるものは何か、監視カメラとリンクする。『美しい日本』


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p31~p32
昭和40年代~50年代の郷愁のような

p33~p35
題詠的な昭和歌謡を連ねて

p36~p42
中国故事、漢詩、三国志
→作者の学んだこと

・遺伝子を残さずに去る人の世の涼しかりけり 朝の蜩(p45)
→遺伝子と蜩の言葉のとりあわせ。秋へと向かうことに仮託された寂しさ

p43~p47
特撮、アニメ、映画、SF
→ここには作者の生きてきた時代がある

p48~p52
宮沢賢治

⇒題詠やテーマに沿った歌がうたわれる中で作者像が見えてくるよう。
 一首ずつの言葉としてのポエジーより、そういった作者像を通して、
 この一冊の作品世界の理解を深める足がかりになっている

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・死ににゆく京都の街よ 遭難碑坂本龍馬佐久間象山(p53)
→自身も重ね合わせる。陶酔感があるが、しかしその陶酔感が自らを動かす

・路地裏のなじみの店の朝はフォー青い香菜たっぷりのせて(p61)
→これまでの大きな視点の歌から旅先(?)の手元がフォーカスされて新鮮

・24時間情報カメラの映し出す四条大橋西詰あたり(p63)
→p28の大括りの「日本列島」から具体的な場所に視線が移る

・初蝶のえふぶんのいちのゆらぎさえ行動予測されていたるも(p69)
→面白い(p45)の蜩と同じく、科学的な言葉とのとりあわせ

・どこをどう間違えたのか昼過ぎのラムネソーダは飲まないでおく(p71)
→「ラムネソーダ」季語的な用法?

・天国は『ルバイヤート』の春の宵 酒はうまいしねえちゃんはきれいだ(p74)
→『ルバイヤート』は読んでないのだが、酔っ払い賛歌みたいな?
 そこに『帰ってきたヨッパライ』の俗をかけあわせ語感よく歌っている
 しかし、ザ・フォーク・クルセダーズは『イムジン河』のグループでもあ ること

・<その翌朝すべての紙面さくら散る> 倍賞千恵子は戦後の象徴(p75)
→なぜ、倍賞千恵子は戦後の象徴なのか。象徴といえば「天皇」を想起する
 いわゆる大衆的なもの、寅さんから連想される妹的なものとしての象徴。

・しろたへのしるくろーどをへてきたるぎをんまつりのよるのじゅうたん(p76)
→枕詞の「しろたへ」が掛かるのは「しるくろーど」の絹の白であろうか。
 その道をはるばる経てきた祇園祭りの夜のじゅうたん...「よるのじゅうたん」って何?と思うのでああるが、しかし、絹の白がしらじらと夜に光るようで、逆にその夜の暗さも引き立つような歌である

・寸止めで喧嘩していた寅さんとリリーのもはや住めない国家(p78)
→好きな歌。この寸止めの喧嘩に郷愁とともに是とするかどうか。
 今の日本を「国家」という歴史的な枠組みで批判的にみている。
 ここでいう寸止めの喧嘩とは何か、なぜ住めないのか。
 それはおそらく、異邦人を受け止めるのではなく異邦人は異邦人として距 離を置く社会になってしまったから。

・京都発長距離バスにゆられきて東京下谷小雨ふる朝(p91)
→よい歌。京都から長距離バスで下谷へ行くとおうこと
 (直接は行けない。きっと新宿で山の手線に乗り換えたのであろう)
 下谷という地名が持つ力がそれだけで歌を豊かにする。
 それも京都という地名の持つ力から長距離バスに乗っていく先としての下 谷であればなおのことである。

p94~p98
中島みゆき
→最初と最後が「中島みゆき」「中島美雪」でくくられる
 p33~p35より情緒的な歌のつくり。中島みゆきフィーチャー。



「ふたたび上洛まで」から始まる


・単線の列車交換ゆったりと過ぎる時間を桜散りゆく(p101)
→桜が出ればどんな歌も美しくなってしまうのだが、この時間の流れが好き。

・喫茶店シアンクレール今はなく荒神橋に佇むばかり(p103)
→p11のシアンクレールの歌からずいぶんと時間が経過した。
 その幻影を思い返すように橋のたもとに私は佇んでいる

・漱石も水蜜桃も謎のまま一生終わることになりそう(p106)
→『三四郎』の冒頭を下敷きにうたわれている。「日本は滅ぶ」という」
 髭面の男の言葉である。それはこの歌集のⅠから通底するあるひとつの
 思想性である。が、それより先に自身の一生は終わりそうということ。
       
・朝夕に見上げ熟柿いつの間になくなっており縁側に猫(p113)
・小雨降る古本まつり会場の路地に漂うカレーの匂い(p113)
・除夜の鐘幾つ数えていたる間の一瞬にして空気は変わる(p115)
・たっぷりの餡の温みを感じつつ鯛焼き軽くぶつけカンパイ(p117)
→Ⅰの思念や観念の表現とは違い、自身の日常の生活を五感で表現する。

・春一番吹かぬ今年も三月の巡り来りて田中好子よ(p119)
→作者がちょうどキャンディーズの全盛期が高校生~大学生の頃だろうか。
 Ⅰ(p37)の歌にも田中好子が登場する。
 高野悦子や高橋和巳の学生運動の時代が終わり、その次の時代を象徴するものとしてのキャンディーズ

・コロッケにウスターソースびちゃびちゃとかけて一日の慰めとする(p120)
→ウスターソースのびちゃびちゃ感が慰めという言葉にリンクする

・六月に紫陽花色の死を選ぶ高野悦子よ未熟なるまま(p124)
→ここでいう「未熟」とはまだなにも始まらないうちにという意であろう。

・システムはわからぬながらお彼岸の頃ともなれば咲く曼殊沙華(p130)
・人肌という体温を宿したる蒲団たためば畳のぬくさ(p134)
→現代短歌的な言い回し

・沈丁花かすかに匂う庭に出て洗濯物を干す気持ち良さ(p141)
→ふんわりとしてやさしい歌である

・駈け寄りて甘噛みをするじゃれてくる貴方のリード長すぎないか(p143)
→少し引いた目で面白がる心

・あなたって字が下手なのはわかってるわかってるけど手紙書いてね(p155)
→相聞歌。切実な願いがリフレインに乗る

・早春の未必の故意の誘惑の水仙甘き匂いを放ち(p159)
→「の」でつながれる単語と水仙の取り合わせがよい

・立看もビラさえもなきキャンバスの静謐にして平和なること(p166)

・紫陽花は今年も咲くけどいま在らば七十歳の高野悦子よ(p167)
→p124のうたと響く。
→七十歳の高野悦子や、たとえばそれからも生きた高橋和巳を想像することはそうはでない事実の再確認、
 出会えなかった時代への郷愁としてうたわれている。

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