『SOUR MASH』 谷川由里子/著を読む

装丁がかっこいい。CDジャケットのよう。あるいは英米文学の詩集。本フェチ的な心にはぐっとくる。

一人称だけど(いわゆる)私性の重たさがないのがよい。だから、どのページを開いても歌のことばに入ることができる。そうして読み進めるうちに素敵になってくる。


ずっと月みてるとまるで月になる ドゥッカ・ドゥ・ドゥ・ドゥッカ・ドゥ・ドゥ  p4

この歌が歌集の一首目。
上句は月のことしか言っていない。ずっととはどれくらいずっとなのか
ひと晩中のずっと?なぜ月をそんなに見ている?月になりたいのだろうか。
ここで気づくのは「まるで」の2句目。「まるで」のあとに来るのは~のようだみたいな直喩になると思うのだが、ここでは「月になる」と断定する。
「まるで月になるようだ」の「ようだ」が抜けているのかもしれないとなどと思っている読み手なんかは放っておいて、一字明けのままリズムに乗って作中主体は月の光のリズムにあわせて月になっていくよう。

日の長い日曜日にはスカートをひるがえしてマーチングバンド  p5

ほんとうにマーチングバンドに参加しているわけではないだろうが、
日曜日の日が長いことがマーチングバンドなのだ。
体現止めで読み手もマーチングバンドの陽気を楽しむ。

芍薬をきみにあげたい芍薬は、大きい、鮮やか、花びら、たくさん   p6

この歌の芍薬はあの「立てば芍薬~」とは違う。
わたしをまるごと相手に広げるような歌い方。
積極的なアピールなようで「あげたい」という願望がある。

全身にくる会いたいという気持ち山ですという山の迫力   p43

この歌もそう。「全身にくる」「山の迫力」の「会いたいという気持ち」なのである。

ずる休みの計画とか立てながらキャベツたっぷりクロックムッシュ   p7

「ずる休み計画」という語感と「キャベツたっぷりクロックムッシュ」の
とりあわせがよい。ずる休みの計画をそのまま挟み込んで食べてしまう感じ


風に、ついてこいって言う。ちゃんとついてきた風にも、もう一度言う。   p15

こどものような言葉の選択。そして、「~にも」とあるからちゃんとついてこない風がいるということ。とするなら、初句2句はちゃんとついてこない
風に言う。ちゃんとついてこない風とちゃんとついてきた風があって、
けれど、ちゃんとついてきた風もついて来なくなるかもしれないから「もう一度」言っている。風がわたしから少しずつ離れていくようなかすかな不安もあるように振り向いて言っている。

土間土間がいちばんすきな居酒屋だ。土間もすきだ。土間土間に行った思い出も好きだ。   p27

「土間土間」は土間のある居酒屋(チェーン店)のこと。
「も」の助詞が「土間」と「思い出」を並列につなげる。
自分が好きな居酒屋を何度も言う。「土間」がオノマトペのようにリフレインされてそこには過剰な感情が入っておらず土間の空間が見えてくる。思い出だから結句は漢字で「好きだ」

夜をめぐるモノレールいつみてもピークいまこそがピーク進んでいくよ    p28

モノレールに乗ればずっと遠くまで見渡せる。そして、こどものようにはしゃぐ景に歌は開かれつつ、セクシャルな隠喩が読みとれて、うまい。

乾きかけのTシャツの下つるつるの瞳にうつす広い星空   p50

「乾きかけのTシャツ」だからまだ湿ってる。
けれど瞳はつるつるで星空をうつす。「うつす」という言葉の選択に意思がある。だから乾きかけのTシャツを着るのもそこにいるのも自らの意思なのだろう。 そこにくっきりと心情と景がある。

アフリカのお土産だって なにクリーム と、考えながら手にぬった p69
お土産のサブレはきっとその土地の空気を持ってきたならいいね   p135

この場所からここではないことを考えている。心情と景の緩さが読み手の心の構えを解く。だから気づくと読み手はいっしょに考え、うなずいている。

風が頬にあたる日々に木々に繰り返しのほうの感情がある   p77

「日々に」「木々に」の音韻。それが「繰り返しのほうの感情」と
さらにリフレンを想起させる句につながる。風が呼んでくる感情を思う。

ホットファッジサンデーたべてから 渋谷、献血カーにのぼった   p79

「献血カーにのぼった」がよい。「のぼった」の使い方が気持ちいい

人間の体は粘土で出来てないから殴ってもその形にはへこまない   p92

へこまないけど痛い。そして「その形」とはどんな形か。
実際に殴って確かめているわけではないが「人間の体は粘土で出来ていないから」と上句全部を使って、自身に確かめる。相手には伝わらないということ殴る側の思いが悲しい感じがする歌

心臓を心臓めがけ投げ込むとぴったり抱きしめられる雪の日   p125

心臓が「ぴったり抱きしめられる」というど直球な歌。好きである。
「雪の日」にさらに心臓の熱と鼓動がつたわる。

スカジャンの胸には鳥のワッペンをつけたらそれはあなたのものだ   p128

一番好きな歌。「ワッペン」がいい。スカジャンに鳥のワッペンがあなたの標。だからそれはあなたのものなのだ。ものに託してあなたへの強力なおまじない

年老いた裸とならび髪を梳くそのとき夜の小さいボート   p139

この歌に驚く。年老いた裸とはだれのこと?
つれあいのような関係だろうか。ふたりだけを乗せる夜のボート
髪を梳いた流れの上に浮かべるような。

話すかもしれない話をしなかった青信号が映える早朝  P152

この歌を読むとき、まず「話すかもしれない」と現在系と受け取り
「話をしなかった」とああ、結局話さなかった過去と知る。
そして、下句で「青信号が映える早朝」で上句の思いは景に託されていると読む。そのとき、景に託された、話すかもしれなかったけど話さなかった話とはなんなのだろうと振り返る。
上句の「~しなかった」ことへの「青信号が映える」のは話さなかった内容を振り切るための背中押しの肯定のようにも見える。
が、否定と肯定が同時に歌に置かれることで読み手はぐらぐらとした気持ちにさせられるのである。

という、読みも単体の歌の読みとしてはありつつも、歌集を通して読んでみればそんな深刻なものではなくて、前夜(セクシャルな関係もありつつ)、いっぱい話す中で、話すかもしれなかったけど結局、話さなかった話もあるなあと思いつつわたしの生活に返る反芻のようなものなのかもしれないと読んでいて思う。


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